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導入:市役所当時、当市は汚職で新聞沙汰になったことはないな、とふと感じたことがあった。きっと神は、クリスチャンの存在ゆえに地の塩として守っておられると感じた。
背景:道徳倫理観の欠如⇒コンプライアンスの崩壊⇒ガバナンスの不安定⇒事故、と学んだ。 適用として、教会の正しいあり方について見てきた。
本文;V21;「彼らの中に立って言った」⇒パウロの預言通りになった。まず、パウロが、社会の中で、信仰者(発言)としての立場を認めてくれる(特に)ユリウス(百人隊長)が居たからこそ、この発言が許されている。
V22-24;「私の主で私の仕えている神のみ使い」⇒このことばは、信仰者のことば。教会の中で理解できる言葉。それを、一般社会の中で発して理解されている。(通用している。)私たちは、これだけ大胆に発信できるだろうか。恐れが先に立つ。確かに、良く知った未信者の方には、このような祈り・発言があるかもしれないが、一般社会の中ではなかなかできない。逆に、人々は求めているのかもしれない。EX.①牧師の病院での祈り。②市役所での神棚撤去の事
V25,26;「そのとおりになるのです。」⇒この言葉は、クリスチャンの密室の祈りの中で与えられる奥義に相当する内容。その所まで聞いて理解し安心を得ている一般社会の人々がいる。
適用 ;社会の中で証しするという事は、多少勇気のいる事である。クリスチャンという事すら隠すようなところがある。しかし、環境が許せば、もっと積極的に突っ込んで関係性(助けの手)を持ってよい。
対社会との関わりで言うなら、一般恩恵から始まって、環境が許されれば、聖書の真理に迫ることもできる。今回は、もっと突っ込んで、祈りの世界(奥義)を伝えている。
一般社会は、実は、その深い恵みを求めているかもしれない。ある時、この様な空気になって話したことがあったら、“パワースポット”という言葉が帰ってきた。一般社会は、不完全であっても、神の偉大な力を信じている部分がある。そして、そこまでを求めている。
クリスチャンの社会に対する変な肩身の狭さ、自信の無さが、社会に対する恵みを逃がしているかもしれない。
蛇のように賢く、ハトの様な素直さで見極め、社会の光になろう。
導入:ガバナンスという言葉をよく聞く。このガバナンスが崩れると、大きな事故につながることがある。例;トルコ地震、中国炭鉱崩落
本日は、パウロ乗船の船事故から学ぶ。
背景:神の恵みはどこにあるか。中心から外れたところに意外と有るものである。
本文;V9;「航海は危険」⇒地中海の航行は危険。☞閉鎖期間11/11~3/5。また、9/14~翌年5/15の期間は、航行を推奨していない。断食(贖いの日)は、今年は9/24
V10;「危害…損失」⇒パウロは、危険な船旅だから、待ったほうが良いといった。☞パウロは、百人隊長にとって、海を知り尽くしており、預言者として特別な賜物を持った人間である事は、知っているようだ。
V11;「船長…信用」⇒海のことは船長もよく知っている。ただこの文脈では、ガバナンスからするなら、船の操縦権は船長でなく、高官であるユリウスが持っている。※船長が譲り、それを良い事にしているユリウスがいる。
V12;「多数…意見」⇒多数決は民主主義の基本であるが、組織が執行(行為を起こす時)する時、組織には職制があるはず。その責任者の下で実行しなければ、責任の所在が分からなくなる。また、良く見かけるケースは、強い者の発言力が勝ってガバナンスをだめにするケースが多い。「フェニクス」⇒今回の航海からすると、この港はすぐ近くである。(100K以上)パウロは、この事情(危険)をよく把握している。しかし、ユリウスは、これも一般常識で考えてしまった。
V13-16;「ユーラクロン」⇒季節風というより、陸から海に吹く暴風。「カウダ」⇒何とか、小さな島陰にたどり着いた。(流された)
V17;「船体を巻いた」⇒どうも、小舟と舟本体を合わせて縛ったと思われる。そうすることによって、船の補強になるのではないか。「浅瀬」⇒アフリカの大河まで流されたら、そこは、浅瀬がたくさんあったようだ。座礁を恐れた。
V18-20;「積み荷を捨て始めた」⇒船を軽くし、風に任せるのが一番の対処法。「完全に断たれよう」⇒まさに、事故にあったのである。ガバナンスの欠如が原因。
適用 ;組織で大きな事故にあう時、プロセスがある。道徳、倫理観の欠如→規則が守られていない。(コンプライアンス)→ガバナンスの崩壊→事故。
聖霊の知恵を頂き、教会の一致と協力による運営を目指していただきたい。
導入:世間一般の価値観は、中心部分に価値があるとみる。しかし、神の国の価値観は、かえって人間社会の弱さを見抜いて、周辺に実は、恵み豊なものがある。本日は、パウロの宣教人生から、本日のテーマから見てゆく。
背景:パウロの歳はこの時いくつくらいだろう。AD5年から60年を引くと55歳と出てくる。(はっきりしていないが)まだ若い。しかし、パウロが宣教人生という時、目標がローマであるから、今回の“出発”は、8割終えて、あと2割が残っている出発という事になる。地中海の横断は決して容易な旅ではない。(歴史の書物はそれをテーマにしたものが多くあるという。)この2割は、今までとは違った、試練となる。しかし、ユダヤ教世界の人間からすると、非常に和やかな環境を見る。
本文;V1;「囚人」⇒結局パウロは、囚人という位置付け。しかし、この囚人がパウロに危害を加える環境ではない。「親衛隊」⇒皇帝警護の、重要な職。ユリウスという百人隊長が引率、監督をする。
V2;「アリスタルコ」⇒パウロといつも近くにいて擁護していた。エペソの騒動。ローマ軟禁時に一緒。
V3;「シドン」⇒クリスチャンがたくさんいた。そこへ寄っている。よほど信頼されていた。パウロのユダヤ教社会の環境と180度違う。☞囚人の集まりというもの、実際は、パウロにとって、今までにない和やかな環境を、クリスチャン世界以外で感じているのではないだろうか。
V4,5;「島陰…沖…ミラ」⇒ここから、地中海の航路が細かく再現されていく。☞地中海の航海がいかに困難かの始まり。
V6;「アレクサンドリア」⇒アフリカの穀物を載せてローマに行く船に乗り換える。
V7,8;「風のせいで」⇒ミラからクニドあまり遠くないが、何日もかかった。そして船首を南に切った。「良い港」⇒ひとまず、船は落ち着く所を得た。
適用;パウロの出発は、厳しい旅になるが、しかし、見方によると、今まで経験した事の無い一般社会での人間関係。☞神の恵みは、社会的価値観と違ったところにあることがある。EX.牧師の職場での交わり
兄弟姉妹、職場で、地域社会で、受け入れられない方がいるかもしれない。しかし、神は、その様なところが実は安全であるため、配慮してくださっているのかもしれない。また、一般社会では価値のないと思われるところに恵みが茂っていることがある。
導入:牧師が結婚式の披露宴に出席した。初めて会う人であったが、興味深げに色々話している内に、変に批判的になった。信仰について、興味があるが、もっと深みに踏み込むことができない人が多くいる。
背景:復活について見てきた。私たちの信仰は、見えないところを進むが、神は信仰成長と確信のため形を見せて下さる。※旧約“割礼”、新約“バプテスマ、聖餐式” ☞復活、聖霊のバプテスマ
本文;V24;「博学…狂わせている」⇒復活の奇蹟が中心になっていることを見抜いた総督の感覚。(子供だまし、空想の世界)
V25,26;「片隅で起こった出来事ではない」⇒イエス・キリストの十字架復活。(約30年前)エルサレムでは大事件になったことである。
V27,28;「預言者を信じていますか」⇒旧約から、イエスの復活を迫られると、彼はついていけないかもしれない。そして、間接的に「イエスを信じますか」との質問になっていることを見たアグリッパは「キリスト者にしようとしている」と、答えをはぐらかすのである。
V29;「私のようになってくださる」⇒復活を信じ、信仰に入ってほしい。
V30,31:「退場してから話し合った」⇒王、指導者たちは、パウロの大きさに驚きと感動を禁じえなかった。今まで敵対していた多くのものが、説教に聞き入り、あるものは信じたろう。パウロ退場後、会場はどよめきが静かにいつまでも継続していたろう。
V31,32;「死や投獄・・・・釈放」⇒パウロの人柄に間近に触れ、多くの者は、どうして、この人を犯罪人扱にするのか。アグリッパは、さらに釈放という言葉まで出した。遅すぎる。ユダヤ教徒はいつもこうだ。☞人間集団は、機会を逃して、失敗を悔いる
適用 ;アグリッパは、キリスト教に興味津々である。また、旧約聖書も、イエスキリストの復活も知っている。そして、それを説教という形で説き起こされても、信じる事ができない。ユダヤ教世界の王として、信ずることができないことはわかる。例;これと反対の人もいる。やくざ牧師。
これは、未信者の人が信仰を持つ話であるが、信仰者が、信仰を全うする事でもいえる。一所懸命信仰を励んでいた人が、晩年教会から離れるという事を見る。例;ある牧師夫人
私たちは、地上を去る時まで「イエスから目を離さないでいなさい」(へブル12;2)
よくやった忠実なしもべよと言われたい。
導入:真実を言うと、教会の中でも「聖霊のバプテスマ」の理解は、様々である。実は、パウロもユダヤ社会の中で復活について同じような経験をしている。
背景:アグリッパ二世は、資料提供者の立場でありながら、派手な王服を着てきた。ちぐはぐを見せつけた。まさにファンタジーである。
本文;V1-3;「慣習や問題」⇒パウロは、王に対して、ユダヤ社会の慣習を知っているというが、旧約聖書も知っているという意味も含んでいる。
V4-8;「厳格な派」⇒パリサイ人としての生き方であるが、真に聖書を愛し生きてきた自分自身も語っている。「約束の望み」⇒結論から言うと、“復活のキリスト”☞真に聖書を学べば復活に行き当たる。「12部族…約束のもの」⇒ユダヤ人は、パウロに反対する者もいるが、イスラエルの真の信仰者も同じように、復活のイエスを待ち望んでいたと言っている。「訴えられている…信じがたいこと」⇒しかし一方で、ユダヤ人は、イエス様の復活を信じている自分を迫害するのか。☞旧約聖書新約聖書から復活についての記述
V9-11;「ナザレ人イエスの名」⇒なぜユダヤ教徒は、“復活が信じられない”か。☞聖書を信じているようで、自分の頭で理解している。子供だましのように感じているかもしれない。【「見えるキリスト」】
V12-18;(この個所は、パウロの回心と召命であるが、大きな体験をしている。復活のイエスに出会っている。)「天から光…私を迫害…イエスである。」⇒復活のイエスと出会い、復活が文字通り分かった。「奉仕者、証人に任命…異邦人遣わす…神に立ち返らせ」⇒パウロの場合、復活のイエスとの出会い。回心。召命。一体的に経験している。
V19-23:(今まで語った事のまとめをアグリッパに語っている。)「苦しみ…復活…光」⇒復活は伝道の中心。
適用 ;冒頭、復活は、信仰生活に適用するなら“聖霊の臨在”体験である。前述したが、信仰は見えないところを進むが、しかし神は時至って、だんだん見えるようにして下さる。(信仰成長)
この臨在体験は、一方で、反対するものも多い。“幼稚”に見えるのかもしれない。歴史に残る大伝道者の多くが、この臨在経験をしている。しかも、幼稚どころか、頭脳明晰な人が多い。
伝道する時、この復活、臨在をキーワードとして伝えたい。パウロがしていた。
導入:本日は「人はうわべを見るが、神は心の内を見られる」をテーマに学ぶ。
背景:フェストウスのパウロ評価から、特に集団の中で、他者を評価するには、言葉に気を付ける事を学んだ。
本文;V23;「アグリッパ王とベルニケ」⇒「威儀」⇒王服と冠。ギリシャ語“ファンタシス”ファンタンジ―の語源。ルカは、ユーモアをもって幻想世界の姿と皮肉っている。「千人隊長…有力者」⇒ここに集まったのは、ギリシャ側の指導層。ユダヤ側の指導層。そしてアグリッパⅡ世。
V24,25;「生かしておくべきでない」⇒ユダヤ人には事の真相がはっきりされていなかった。そのことをはっきり伝えている。“死罪にあたらない。”(☞パウロには落ち度はなかった) ユダヤ人達は、ガックリ来たろう。
V26,27;「書き送るべきことを得たい…理由を示さない」⇒今まで裁判という善か悪かを審議し決定すべき場面ばかりであった。しかし審議未了。今回は重要な決定の席についたのかと思いきや、“参考資料”を欲しいんだと言っている。参考資料は、それが、採用されるか定かでない。それだけ軽い場面であるという事である。ローマ総督に口答えも出来ない王初め、指導者層がいる。被支配者の情けなさを感じたことであろう。しかし、アグリッパは威厳をもって席についている。正に、ファンタジー(幻想)の世界である。
適用 ;表面を着飾る“地位名誉”“経済”“学歴”もある。しかし、中身を精査することも必要。Ⅰテモテ3;1を見ると、「監督の職につきたい」という言葉がある。味方によれば地位、名誉とも解することができる。聖書が言う事は、リーダーたるもの、能力、賜物(資質)があり、社会に配慮でき、神に栄光を返すことのできる人。内実の伴ったことが必要で、中身のないまま、地位名誉を求める事がいけないと言っている。
この様な生き方が何故生まれるか。信仰があるかないかである。信仰者の生きがいは、神と交わる中で頂く喜びである。すなわち、祈りであり、礼拝である。しかし、信仰がないと、生きがいの焦点は、知らないうちに他者との比較の中で、優越性の中で生きがいを見出す。
一方環境も考えなければならない、見栄えばかりを気にする社会、すなわち、競争意識を刺激するような社会を選択しないようにしたほうが良い。真偽眼が狂ってくる。
中身のある生き方を、目指そう。
導入:密接な人間関係の中で、社会的評価を決める立場の者が、人前で「お前はだめだ!」と決めつけた時どんな感じを持つか。本日は、社会的評価の影響力について学ぶ。
背景:新しく就任したフェストゥスの言動から、法の大切さについて学んだ。
本文;V13;「アグリッパ王とベルニケ」⇒兄妹の関係。アグリッパⅡ世はユダ州の統治者(ローマとの共同統治)
V14;「残していった男」⇒持ち出して当然である。
V15,16;「慣習にない」⇒告訴、弁明という裁判上の当然の理を全うする所からも、誠実な人である。
V17,18;「告発理由…申し立てません」⇒フェストゥスは、事の真意をよく見抜いている。現在なら、訴えが却下される。しかし、フェストゥスは、問題の本質は他にあるとみて取って審議未了状態にした。
V19;「死んでしまったイエス」⇒問題の本質は、宗教上。しかも、現代理性では考えられない復活のこと。☞フェストゥスは事の本質をよく見て取っている。それは、結局パウロへの理解と弁護と表現される。
V20;「見当がつかない」⇒裁判の争点が、奇蹟のこと。今まで経験したことがない。☞フェストウスの真実味溢れる姿。何とか、決着を突かせるため骨折っている姿が見えてくる。
V21,22;「皇帝の判決」⇒総督の裁量権の中とは思うが、審議未了だからできた。(この状態にすることは、ユダヤ人にも機会を与えようとする配慮とも感じる。)結局パウロの身分的位置づけが勝って上級審に持ち込まれた。
適用 ;総督フェストウスは、パウロのことを理解し弁護している。と言うよりも、当たり前のことをしたまでである。(適切に事を処理してきた。)
冒頭、社会的評価について言及した。それからパウロを見ると、ユダヤ社会の社会的評価は燦燦たるものである。しかし、一方で、総督が理解を示し弁護をしているのを見ると、さすがパウロでも、うれしかったと思う。
例;ある相撲取りから教えられた事。
社会的評価は、群集心理、烏合の衆のような虚偽に満ちたものがある。しかし、事の真相をよく見極めて生まれてくる真実もある。見極めが必要。
人を評価する時、言葉に気を付けよう。不注意に、しかも、集団の勢いに押されて誤った評価をしないように。逆に、集団が誤った方向に流れる時、真実を勇気をもって発信しよう。
導入:本日は、規則が身の安全を守る事について学ぶ。
背景:ユダヤのローマ総督フェリクスは、下心をもってパウロに接触してきた。パウロは、さばきを中心に福音伝達をした。
本文;V1;「エルサレムに上った」⇒総督の交代があった。フェストゥス。統治者といえども、賢明な指導者は、その土地の者と仲良くしなければ務まらない。しもべの姿とともに、治安が悪くなれば、司法、警察権を発動して治安維持に努めるのが良い指導者と言える。その意味でエルサレムの有力者に挨拶に行った。
V2;「告訴した」⇒この地には“懸案のお尋ね者がいる”といったところ。しかし、パウロに対して根深いものを持っている。※前総督の裁判は審議未了。
V3,4;「呼び寄せて」⇒総督官邸に監禁されている者を、勝手にエルサレムに連れて来い、と言っている。「監禁されている」⇒ローマの管轄権の中で、被支配者が連れて来いとは、ⅰ監禁者は、重要人物。規則に基づかなければ移動の自由は赦されない。ⅱ被支配者が、支配者に指図する法はない。☞フェストゥスは賢明な指導者であった。法に照らして采配を振るった。結局パウロの命が守られた。
V5-8;「裁判の席について」⇒この総督の堅実な点は、事務遅滞がない。「申し立てた」⇒フェリクスの裁判の再現である。※ⅰ“ペストのような男”2“ナザレの一派”3“宮を汚した”「パウロ…弁明」⇒これも再現である。
V8;「エルサレム」⇒総督は、結論を出せば、パウロ“勝利”であろうが、問題の本質は宗教の問題だと見抜いて、ユダヤ人に百歩譲って、エルサレム裁判(勿論、総督の下での裁判になるが、想像だが宗教的な事を争点としたい、と思った。)
V10、11:「カエサルに上訴」⇒パウロにとって、サンヘドリンの二の舞、宗教的な事で“一件落着”となれば、ローマ行きは頓挫する。そして、パウロの裁判上の身分は、ローマの管轄権。どうして、ユダヤの管轄権に戻せようと即決した。※確かに審議未了の色合いは大きいが、だから、上訴という手段が許されるのであろう。
V12;「カエサルのもとに行く」⇒結局ユダヤ人たちは、パウロを取り逃がした格好になる。パウロにとっては、神の使命が着実に一歩進んだ。
適用 ;法は大切である。
誠実の証として、忠実にこの世の規則に従う者となりましょう。
導入:伝道者、リバイバリスト“オズワルド・スミス”の説教を本で読んだ。“裁き”が前面に出ていた説教であった。本日は裁きについて学ぶ。
背景:虚偽と、真理の対決について見た。人には、人生の中で、身ぐるみ剥がされる“さばき”の座に立つ時がある。虚偽はそれに耐えうるか。出来ない。
本文;V24;「ドルシラ」⇒ヘロデ・アグリッパ1世の末娘。政略結婚で、心身ともに疲れていた。「話を聞いた」⇒妻の精神的平安を求めてやってきた。また、本人も夫婦生活につかれていたかもしれない。
V25;「来るべきさばき」⇒伝道する時、良く相手の心を見る必要がある。本当に、救いを願って来ているのか、下心があるのか見極める必要はある。
裁きについて
ⅰイエス様は愛を語っている。この事と裁きの関係性は。
☞主の祈り“負い目”を赦す(マタイ6;12)と、罪の赦し(マタイ26;28)と罪は罪でも違う。何が言いたいか。人の日常における弱さによる罪は、基本的には赦す必要がある。 しかし、負い目(フォフェイレーマ)の背後にある原罪(ハマルティア)を赦すのは神しかいない。神に取り扱って頂かなければいけない。☞時に厳しい裁きに発展する。
ⅱ私たちは、神に似せて作られた被造物。聖なる世界に住むようにできている。
☞一方、(前述した事と矛盾するように聞こえるかもしれないが)寛容とは裏腹に社会の中で、悪が大手をふるっているようなことは認めることができない自分がいる。それは、私たちが神につくられた被造物であるからである。聖なる世界は、悪が大手を振って闊歩するのは認めることができない。勿論神もそうである。そして、この悪の支配が、継続すると平安をなくす。しかし、神が裁かれるのを信仰で見ると、平安が来る。※救いとは、神の恵みを実感できたときにはじめてわかる。この事も、神の業という事である。
適用 ;詩篇の祈りの中には、個人的な利害関係の中で悪に悩まされている記者(ダビデ)がいる。そして、その悪人の罪について、徹底して神に裁きを求めている。祈りだから許される。
くどいようだが、私たちの平安を受ける救いの分野には違いない。慰め、癒しと同じように、悪が神に裁かれるのを見ると、平安が来るのである。
この事を知るなら、現代社会で、人間関係で悩み、苦しみ、精神的病に陥った人も、解決されると感じるのである。
導入:プーチン大統領はじめ指導者たちは世界に対して、平気で虚偽、詭弁を発する。本日は、うその証言と、真実について学ぶ。
背景:ユダヤローマ総督に、祭司長、長老たちの訴えが始まった。ⅰペストのような男☞暴動を起こす。ⅱナザレ時の一派(異端)ⅲ宮を汚した しかし、訴える証拠もなければ、詭弁を使ったものにすぎない。
本文;V10;「長年」⇒パウロも、相手の賛辞から始まる。しかし、いんぎん丁寧ではない。
V11-13;「12日…扇動」⇒“暴動を起こした”ことに対する反論。7日清めの期間。残り5日で、暴動を計画できるか。
V14-16;「彼らが分派」⇒ユダヤ教徒たちは、パウロの宣教を異端呼ばわりしている。パウロは、彼らと違うことを認めている。しかし、旧約聖書を信じていると告白する。☞旧約聖書を信じている者に異端呼ばわりはない。(ユダヤ人達が異端) 「復活」⇒サドカイ人を除いて、ユダヤ教徒は復活を信じている。しかし、キリスト教徒の信仰とは違う。我々にとって、救いの核心そのもの。
V17-19;「彼らが…訴えるべき」⇒今回は暴動が引き金になってこの裁判が生まれた。その暴動は、パウロが神殿に外国人を入れたという事である。アジアから来た者が言い出した。これだけ大きな事件なら、このアジアから来たものが訴えることができるし、証拠を握っている者たちだから直接の訴追人となる。しかし、今回はその者たちがいない裁判。うわさで聞いた者たちが訴えている。☞裁判の基本が間違っている。
V20-21;「叫んだにすぎません」⇒サンヘドリン議会が現在訴えている、と言う状況であるが、議会でパウロが何か不正をしたか。もしくは、不正について論議があったか。☞何もなかった。もしあったとしても、今回の様な虚偽の訴えであろう。「死者の復活…叫んだ」⇒あえて言うなら、死者の復活を叫んだ。☞自分の意見を述べるところが、裁判の席。どこが悪い。
V22:「延期」⇒フェリクスは、千人隊長が来たら結論を出すとした。
適用 ;今回の裁判は、嘘と、真実との対決である。パウロの言動を見ていると、真実はいかに強いか、と思わされる。パウロの真実は、いかに構成されたか。日常生活を真実に生きている。その行動をそのまま報告するだけである。なにもむつかしいことはない。当たり前のことをしているだけである。
導入:2023年度は、私たちの教会にとって大きな変化の年となる。会員会で、兄弟姉妹には、一致協力して教会を支えることを要請してきた。その様な中で、平時とは違った教会政治となる。この教会を支える“奉仕”の前に教会とは、何かを考える。
背景:本日のテキストはエペソ人への手紙である。教会について書かれている。教会について、聖書は多くの紙面を割いて多方面から語っている。その様な中で、まず押さえておきたい教会の意味。ⅰエクレシア☞「招集する」という動詞から派生した語。聖霊によって召集された共同体(教会)。ⅱ新しいエルサレム☞“神がそこに居られる(臨在)”地上の教会は来るべき天上の教会の姿。
結論☞教会は、聖霊によって始まり、今も、聖霊が臨在し、進展させている。
本文;V20;「キリストにあって」⇒文脈的に、キリストによって贖われた。それは、地上の隔ての壁(神とは程遠い者)が取り払われた神の家族。そのお方が住む、いや、ご自身が教会である。そのキリストにあって「組み合わされ」⇒教会はいのちの通う有機体。賜物をそれぞれが生かし一致してキリストの体を建て上げる。「成長」⇒「聖なる宮に変えられていく。」※聖なる宮とは、22節「御霊によって神の御住まい」それは聖霊が内住した教会の姿。
適用 ;教会の姿を見る時、聖霊が大きく関与している。“臨在”という時、神の側から、個人・集団(共同体)に働きかける状態をいうが、今回の聖霊の内住とは。☞元々、信じた時、聖霊が自動的に個々人に入ってくる。この聖霊が、入った時は自覚がないが、時至ると、大きく働き、知恵を与え、力を与え、聖なる証者として立たせて下さる。一番は、信仰の確信を与える。その時、内から聖霊が個人に働きかけ、臨在を伴ってくる。(ローマ8章9,10,11節)
今回の“成長”を考えると、この言葉以前に、聖霊の関与が大きく締めている。
成長の証としての、奉仕は、二の次、三の次の話となる。例。ローマ人への手紙。マルチン・ルター、ビッグバン
もう一度初めに戻るが、教会を表すとき、聖霊の関与を抜きにして語ることはできない。起源において、聖霊が呼び出し、今も、外と内の臨在の中で、教会が養われていく。
聖霊を受けやすいとは、基本的には祈りの中から与えられる。またそれは共同体の中で受けることは、基本の基本である。
導入:子どもの賛美、「世界ではじめのクリスマス」何か物悲しい。(「しめやかな」かもしれない) この曲があらわしているような社会的に蔑まされている羊飼達が経験したクリスマスとは何んだったのか。
背景:V1,2;「キリニウス」⇒この者がシリアの総督。また、この者の統治時代に住民登録があったことは歴史の中でない。☞イエス様の誕生の年月日はわからない。一般的にBC4年と言われている。
V3,4;「住民登録」⇒ヨセフは、ダビデの家系のため、ナザレから100K離れたベツレヘムへ移動しなければならなかった。
V5-7;「男子の初子を生んだ…飼葉桶に寝かせた」⇒メシアの誕生は、余りにもみじめな、弱弱しい姿で地上に現れた。☞私たちの救い主は、社会的弱者の救いが優先される。(救いにふさわしい)
本文:V8,9;「主の使い」⇒羊飼いは、神の臨在に触れた。臨在は素晴らしいが、一方で極端な恐れに代わる時がある。“民全体の大きな喜び”を告げに来た。
V11,12;「主キリスト」⇒主は、イスラエルに与えられた神の名前。(人格的、インマヌエル) キリスト=メシア☞旧約時代、主とメシアが一体とは言われてこなかった。ルカははっきり明言した。「飼葉桶…みどりご」⇒このメシアは、赤ちゃんで、しかも飼葉桶に寝ている。それが発見のしるしとなる。
V13,14;「いと高き所に栄光が神にあるように」⇒有名な歌の一節になっている。“おびただしい”☞天国のスケールの大きさとダイナミック “軍勢”☞力の神(悪に対する) “栄光”☞光り輝く喜び、希望 貧しい羊飼いたちが経験したのは、彼らの社会的状況とは全く逆の光景である。
V15-18;「知らせた…驚いた」⇒そこにいた人たちに、経験したことを一部始終話した。驚いた。☞ⅰメシアがついに来られた。 ⅱスケールの大きい、ダイナミックな天国様態
適用:“世界ではじめのクリスマス”物悲しい。これを代表しているような羊飼いの社会的状況。☞しかし、人はいつか地上を去る時、全ては取り去られる。それを思うと、人は何も持ってない弱者という認識は大切。
しかし、神は、環境的に貧しい者達に(特別に)、地上における喜びを与えて下さる。それは、天上の姿である。それも、地上では知る事がない世界である。まさに神の民の嗣業であり、特権である。※一方この喜びは、基本的に教会に与えられている。
2022年12月18日 礼拝説教
聖書箇所 ルカ1章5-25節
説教題 「心静めて神を待ち望むアドベント」 本間羊一師
本間羊一先生プロフィール
隣の同盟の教会で、紹介するほどもありませんが、牧師が知る羊一先生をご紹介します。
先生とは、東京基督神学校で一緒でした。一学年後輩です。新潟に赴任することをお聞きし、しかも、お父さんが開拓した教会だとお聞きしました。お父さんは開拓半ばで天に召され、いわばお父さんの意志を引き継ぐ形となりました。これからもわかるように牧師家庭で生まれ育った牧師家庭の先生です。
私が赴任して、新潟聖書学園の先生を務めていることを聞き、先生が学究的な面を持っておられることを知りました。
新潟は、先生のホームグランドで、土地柄はよくご存じと思います。
キリ神の寮では、「羊ちゃん」の愛称で皆から親しまれ、穏やかさが先生のお人柄。
兼牧という形で、2つの教会を受け持つことは大変です。しかし、先生はお若く(44歳)、こなして下さると期待しています。
導入:私たちの生活(仕事)で、知識、“技”が大きく関係している。例.師匠と弟子。先輩から学ぶ。一般的には、教えられる方に苦労が多いと思われがちである。しかし、知識を持っている教える側のほうが責任は重い。本日は知識の用い方について学ぶ。
背景:パウロは総督官邸に留置された。ついにローマの大きな組織に入っていった。待たされることになる。待つとは信仰である。
本文:V1;「弁護士」⇒一昔前まで、弁護士は、一般庶民と程遠いと感じていたが、最近の事件で、いっぺんに身近な存在になった。ⅰ高い知識の持ち主 ⅱ正義、公平を社会的責任とする理念
V2,3:「平和享受…改革進行…感謝」⇒必要以上の誉め言葉である。当時の公的な弁舌は、ほめちぎることが慣例となっている。
V4,5:「疫病…騒ぎを起こす」⇒弁護士は、パウロについて国家転覆罪を起こす恐れがあると陳述するが、千人隊長が手紙に書いているように、パウロに悪いところは見当たらないと認識している。(客観的にみればその様に解釈することが正当である。) 逆に騒ぎを起こしているのはユダヤ人の方。「ナザレ人の一派」⇒メシヤ運動(ユダヤ人はメシヤは出現していない)を引き起こす、これも国家転覆罪に該当する。
V6;「宮さえも汚す」⇒この件も、千人隊長が証言しているように、証拠を求めても、各人てんでバラバラの事を言っていた。☞でっち上げとしか言えない。
V8,9;「お分かり」「同調」⇒かくして弁護士の陳述は終わった。
適用:一連の弁護士の陳述を検証すると、総論的に、弁護士の理念とする正義、公平からは程遠い。お金で買収されるケースもあるのではないか。※弁護士が、悪人を弁護する一番大きな原因は、「冤罪防止」であるそうだ。個人的には、人間どんな悪人でも、良いところを持っている、その所にフォーカスを当てて弁護すると思うのであるが、このように知識を悪のために用いて振りかざすことは、後日神の取り扱いを受けることになる。
(知識をいかに用いるか)
牧師の証☞知識を高慢で用いた代償は大きかった。できないトラウマは40歳くらいまで続いた。
知識は、人への愛、神への栄光のために用いなければならない。
こういった意味で、持っている者は大きな責任がある。誤った用い方をするならば神が見ておられる。
導入:「ナザレのイエス」日常の中におられるイエス様。一方、イエス様は国家的、宇宙的なお方である。預言者イザヤは、このミクロ的とマクロ的のメシヤ、イエス様を、生まれる700年前に預言した。本日は預言の内容を見る。
背景:BC722年、北イスラエルは、アッシリアに滅ぼされた。その10年前からアッシリアは、南下してきた。その状況をイザヤは目の当たりにして、このメシヤ預言が生まれた。
本文:V1-2;「海沿い…栄誉を受ける」⇒侵略、蹂躙された地に光が輝きだし、栄誉を受ける。不思議な出来事を受け取った。神からの預言としか言い得ない。
V3-5:「国民…刈り入れ…分捕り物」⇒前節の栄光の輝きが、具体的に書かれている。侵略者が打ち負かされて行く様子が奇蹟を通して描かれ、戦争が止み、平和が訪れる。
V6-7:「主権…不思議な助言者…力ある神…永遠の父…平和の君」⇒有名なクリスマスメッセージである。不思議なお方。一人主権者であり助言者。全知全能のお方。保護者であって時間を超えたお方。地上的にも平和の統治者。「主権増し加わり…王国を治める」⇒この国の統治は、ダビデ王国の延長線上にあって、永遠性(終末的)。「さばきと正義」⇒地上は、悪が栄える。しかし、悪い者は、裁かれる。☞この原則。「熱心」⇒㋬キヌア―。裁きの熱心に使われるが、ここは、預言成就に向けて使われている。
適用:冒頭、私たちの救い主は、ミクロ的、マクロ的と話した。宇宙的な統治者と言える。しかし、どうして、真っ暗闇の中から、この光輝くメシヤ預言が生まれたか不思議でならない。しかも、永遠性、悪への裁き、歴史と世界の統治者。また、日常の中に居られ、インマヌエルなる方として、友のように親しく存在するお方。
ハレルヤ!主に栄光があるように。クリスマス、心からイエス様に褒め歌を歌おう。
導入:「待つことは信仰」よく聞くことばである。基本的に信仰がなければ、“待つこと”はできない。信仰のない一般社会の人も、クリスチャン以上に待つことに長けている人がいる。これは神の一般恩恵によるものと思われる。本日は、“待つ”=“信仰”について学ぶ。
背景:千人隊長は見ていない様でちゃんと見ていた。物事、正しいこと、間違ったことは、主なる神がちゃんと見ている。(それは時が来ると顕わにされること。)
本文:V31、32;「アンティパトリス」⇒カイザリアの途中経路。56Kあった。ここから、歩兵たちは帰り、騎兵隊にパウロを任せた。カイザリアまで、35Kである。夜のうちに一気に走り抜けた。
V33、34:「どの州の者か」⇒裁判を受けるのは、生まれた所(タルソ=キリキア州)と、事件の起きた地。(エルサレム) ☞キリキア州は、シリヤ総督、エルサレムは、ユダヤ総督が、管轄。
V35:「…聞くことにしよう…保護」⇒強大なローマの組織の中に入っていった。官邸に保護されたパウロは、この強大な組織に飲み込まれて、まともに取り合ってくれるだろうかと不安があったのではなかろうか。
適用:人生には色々なパターンの待つことが出てくる。しかし、冒頭で語ったように基本的には信仰がなければ待つことは難しい。現代、この“待つ”=“信仰”は、気薄な時代である。例;ある兄弟の話。
だから、この信仰が未来と深く関与していることを、みことば、リアリティーある証から検証されなければならない。
ⅰ(みことば)☞へブル11;1、エペソ1;13
ⅱ「聖霊のバプテスマ」について☞使徒1;5、使徒2章(参考;使徒11;15,16)
ⅲこの聖霊のバプテスマがどのように適用されているか。☞使徒8;16,17、使徒19;1-6
ⅳ宗教改革以降の歴史上の人☞ルター(1483-1546)、ジョン・ウエスレー(1703-1791)、ジョナサン・エドワーズ(1703-1758)、D.L.ムーディー(1837-1899)
ⅴ信仰を適用し、証した人☞チョウヨンギ師
“待つこと”=“信仰”を聖書が教えるとおり、自分のものとしましょう。信仰成長は、聖なる歩みとともに、このところの成長を言う。
導入:「頭隠して尻隠さず」イメージとして、子供のかくれんぼをイメージしていた。これを大人にあてはめると、要領のいい生き方をして、世間には分からないだろうと高をくくっているが、見る人が見ると、一目瞭然。この見る人こそ、神である。本日は全てをご存じの神について学ぶ。
背景:人生の危機一髪の時、神は天使を送ったり、様々な手段を用いて助けて下さる。
本文:V25,26;「リシア」⇒この手紙は、差出人;千人隊長(リシア) 受取人;ユダヤのローマ総督(フェリクス)
V27:「ローマ市民…分かった」⇒この所は、自白強要の恐ろしい“ムチ打ちを実行する前”に、ローマ市民権所有者である事が分かったことが欠落している。著者ルカは、千人隊長が自分に都合の良い内容も克明に記している。☞歴史的事実を表している。
V28,29:「律法に関する問題…死刑や投獄…ない」⇒今まで、千人隊長は、パウロの事を、どのような問題を起こしてきたのか知らなかった。しかし、この時点で、自分は知っていると語っている。(このことが総督送りの根拠だとするなら、怒られる。今回の根拠は、ローマ市民の暗殺陰謀である。だから、このこと“パウロ事情”が説明の中で明らかにされている。)
千人隊長は、最高法院、そのほかパウロの立ち振る舞いをつぶさに見て、この男は白だ。いや、もっと言うなら“立派すぎる男だ”と認識していた。悪いのはユダヤ教徒たち。見ていない様でちゃんと見ている。
V30;「陰謀…送る」⇒総督送りの根拠はこれで充分である。しかし、未遂に終わっているため、ユダヤ人の暴動に結論(裁判による裁定)は下っていない。「訴えよ」、という。
適用:総督はパウロの事を見ていない様でちゃんと見ている。この心は神から与えられている。いわば神は、一部始終をご存じである。それを、人を介して証されるという事であろう。
一方、全てをご存じの神の目をもって生きる事ではないだろうか。
社会、集団の性質(ある一面)ⅰ聖なる面 ⅱ噂に翻弄される面 ☞元総理の証。
この背景の中で生きている私たちは慎重に真理を見分ける必要がある。例;人間社会の中で、“社会的評価”はいつもチャレンジを受ける内容である。☞出世についての証。
世間的評価に翻弄させられることなく、“見ているお方がいる”事をいつも覚えて、敬虔に生きようではないか。
導入:本日は、危機一髪という時、神は助けの御手を現わされる。
背景:大望の前に物事は急展開していく。パウロの大望は、余りにも唐突と言ってよい。そのためにも、人生の綱渡りをしていく。それでもパウロの使命(神の御心)がなっていく。
本文:V12,13;「殺すまで…者たち…40人」⇒いかにパウロに反感を持っている者たちが多いか。ユダヤ中の大きな事件に発展しているのがわかる。彼らは国粋主義者。(ユダヤ人の悪は非常に人間的)
V14,15:「祭司長…ところに行って…来る前に殺す」⇒パウロ殺害計画陰謀。
V16:「パウロの姉妹の子…耳にした」⇒パウロに家族親族が出てきたためしはない。文脈からするとあまりにも唐突。しかしここでは、パウロの甥っ子でなければならなかった。後述する、信用問題が出てくる。☞天使が、甥っ子に似せて来たかもしれない、と牧師は勝手に思う。
V17;「連れて行ってください」⇒パウロが百人隊長に言った。「この甥っ子を千人隊長の所へ」⇒甥っ子でなくて“ある青年”だったらどうするか。当然百人隊長も、真意を確かめ、時間がかかる。事は急を要している。甥っ子のゆえに百人隊長は即座に信用した。※パウロも同じであろう。
V18,19;「手を取り…私に知らせたいこととは何だ」⇒千人隊長も、パウロの甥っ子のゆえに信用している。
V20-22;「このことを…だれにも言うな」⇒この青年を疑うことは全然していない。また、千人隊長の、もやもやしていた行動が、即座に決心した。
V23,24;「カイザリアに向けて出発」⇒総勢470人の兵隊をパウロの護衛として付け、カイザリア90Kの道のりを一晩で敢行する。事件の大きさと、千人隊長の自信に満ちた行動が光る。※ユダヤ、ローマ総督に事件を移行できる準備が整った。
適用:神は危機一髪の時に、助け手を送ってくださる。EX.イスラエル交響楽団の話。
自分にとって、一番大きな経験は、牧師の時の聖霊のバプテスマ。(何度も証ししている。)
この経験は、人の圧力に屈しない力らとなった。※その後の祈りは、確かに、この天使の出現を期待する祈りとなって、祈りに応えて下さる。
今回のテーマ―は、危険を受ける受け身の奇蹟であるが、私たち人間を創造した神の積極的奇蹟を紹介する。EX.「DNAに刻まれた神のことば」
導入:大きな希望は、常識を超えた大きな器を作り出す。それはもっと言うなら、不思議な人生展開をもたらす。本日は、パウロのローマ宣教を考える。
背景:この世は聖なるものに敵対してくる。その時、イエス様、神が裁き(取扱い)を持って迫ってくる。この意味が認識されないと、信仰による平安がおぼつかない。
本文:22章V30;「最高法院集まる」⇒ユダヤは自治権が許されている。千人隊長は困惑している。ⅰローマ市民権を持った男が暴動に巻き込まれ死んだらどうする。(統治権の欠如) ⅱローマ裁判に持ち込むにも証拠がない。(自白できない。暴徒達は勝手なことを言っている。) ☞公式な場からの結論が欲しかった。
23章V1:「兄弟たち」⇒彼ら(特に指導者)を叱責した。(神の代理者として怒る。)
V2、3:「口を打て」⇒パウロに刑を執行する。「さばく座…打てと」⇒ユダヤの慣習の中にも、刑が確定しないのに、ムチ打ちをするというのは禁止されている。
V4,5:「大祭司とは知らなかった」⇒皮肉である。下の者が上のものを叱責する時がある。(神の代理者として)
V6;「死者の復活という望み」⇒この議員達にこの案件を投げ込めば、二つに割れる事を知っていた。☞ⅰパウロが恐れたのは、宗教、律法、慣習問題で一件落着すれば、ローマ行きができなくなる。☞ⅱ結局パウロのローマ宣教は、終末(厳しい時代)が近づいている。早く全世界に福音を伝えなければならない。それには、カエサルに直接会う方法(裁判)に訴えた。☞ⅲ神の栄光のために、この世の策略者のように振舞う。
V7-10;案の定、議会は二つに分かれた。「引き裂かれる」⇒事態は、ますます悪くなってきた。さらに次のテキストでは、暗殺計画まで飛び出してくる、
適用:パウロの、無謀とも思える策略が、彼のローマ宣教の一ページを開いていく。結局パウロの大望(カエサルに会ってのローマ宣教)のゆえに、事は急展開していく。(エルサレムに行くとき、迫害を預言した者たちの成就はこれである。)
パウロの大望終末的な大望であった。
例:ある知人のがんの癒し。
私たちの共通の大望は、村上の救いであり、日本人の救い。日本の世界に於ける立ち位置から、この日本が世界の平和の使者として、神の国を発展させなければならない。祭司の国となるように。大望と言ってよい。
導入:水戸黄門漫遊記という時代ドラマがある。この“勧善懲悪”のドラマは印篭が出てくる。この印篭には絶大な権力がある。本日はローマ市民権について学ぶ。
背景:先週は故郷を愛する心について学んだ。愛するとは、どうしても言わなければならないことは、相手が怒っても伝える必要がある。
本文:V22,23:「こんな男…除いてしまえ」⇒案の定群衆は怒り出した。(ユダヤ人に、自分は、異邦人宣教をしている、といえば(たとえ神が啓示を与えたといっても)受け入れない。)
V24:「むちで打って取り調べる」⇒このむち打ちは、刑が確定したために打たれているものとは違う。自白強要のむち打ち。※たいへん恐ろしく、死ぬか、不具者になるほどのものである。
V25:「ローマ市民…裁判…打ってよいのですか」⇒ついにパウロは、ローマ市民権保有者である事を打ち明けた。当然百人隊長は驚いた。※ローマ市民は自白強要で、この手のむち打ちは、徹底して免除されていた。
V26-28:「あなたはローマ市民なのか」⇒ローマ市民権は絶大な威力がある。☞ローマは法治国家。特にローマ市民権を持っている者には、その市民による人権が、徹底的に保護されている。(法で人権保護が謳ってあっても、法令順守(コンプライアンス)が守られなければ絵に描いた餅。)ローマは、社会的な価値観と言う様なものにも左右(忖度)されないコンプライアンスが行き届いていたと思われる。だから法治国家と言われる。
V29;「身を引いた」「恐れた。」⇒千人隊長でも、この自白強要がわかれば“首が飛ぶ”
適用:ローマ市民権には絶大な威力(権威)がある。現代クリスチャンにとって、救い主、また神の国に君臨する王なるイエスキリストこそ、このローマ市民権以上の権威をお持ちの方である。具体的には悪に対する裁きである。
ⅰ 聖書の中に裁きは、多くのスペースを割いて記述されている。(詩篇、預言書。新約では最後の審判)裁きについて、しっかりと認識する必要がある。
ⅱ 対社会の中で、救いについてこの“裁き”が認識されないと、救い(平安)について、非常におぼつかないものになる。
神の国を立ち上げる中で、愛、謙虚さとともに、概念的には真逆のこの裁きについて、信仰を働かせようではないか。
(ユーチューブ)
https://youtu.be/eqcZ-CdIWxY
導入:故郷を思う心は、一度離れてみるとよくわかる。本日は、パウロのユダヤ人を思う心から学ぶ。
背景:パウロは、神殿に異邦人を連れ込んだと勘違いされ、暴動、リンチと危うき目を経験したが、千人隊長が、自分の統治能力を疑われてはいけないとして、パウロの保護に万全を期した。
本文:V37-40:「ギリシャ語」⇒当時のユダヤでギリシャ語を話す者は教養人として認識されていた。「エジプト人ではないか」⇒AD54年、エルサレムに暴動を起こし謀反を企てた男。「話させてください」⇒殺されるかもしれないが、千人隊長は勇気ある男と思った。
V3-5:「熱心なものでした。」⇒あなた方と同じユダヤ教徒。「この道迫害」⇒さらに、クリスチャンを迫害するようなものでした。(証拠もあります)
V6-10:「まばゆい光」⇒ユダヤ教という人生基盤が、音を立ててくずれ落ちる経験。そして、逆に、真実な救い(ナザレのイエス)の出会い。「主よ」⇒人生の基盤がすっかり変わった瞬間。※救いは、罪悔い改め十字架を信じるプロセスがあるが、実はその前に神認識がある。“出会い”である。
V11-16:「律法に従う敬虔…アナニヤ」⇒アナニヤはユダヤ教社会の中にあって、クリスチャンとして生きていた、という証拠。「すべての人…証」⇒パウロの使命世界宣教を預言。神が啓示してくださった。
V17-21;「離れる…受け入れない」⇒主のことばが臨んだ。☞このことを言えば、また暴動が起きる。しかし、パウロの異邦人伝道を説明するためには真実を言わなければならない。
適用:牧師は、牧会の中で、これほど、近隣の方々と親しくして頂いた事はない。しかし、(パウロも真実を述べたが)魂の救いとなるとハードルは大きい。☞神社仏閣、お祭りという歴史の中から、地域的、親族的な縛りの中にいる。ここが解き放たれることを祈り、行動することが求められる。
翻って、村上のこの空気、宗教観は、日本の至る所で見受けられるのではないか。世界は終末である。この時日本の世界に対する立ち位置は、大変重要である。☞祭司の国、平和の使者、世界のポリス。このためにも、日本の救いのために、教会がしっかりするとともに、救いのために祈り・行動する必要がある。
導入:人生は浮き沈みがある。色々な坂がある。上り坂、下り坂。そして、もう一つの坂。“まさか”という坂がある。
背景:教団と国家の動向は、悲しいかな、大きな影響がある。(この教団も国家も、神が設立したものである。簡単に否定する事はできない。) ある一線を越えた時、正しい信仰を守るため考えなければならない。
本文:V27-29:「アジアから来たユダヤ人」⇒エペソリバイバルの時、遠くから、パウロの活動を苦々しく見ていた、外国に住むユダヤ教徒。さらに彼らは、次に出てくる“トロフィモ”がパウロと懇意にしているのも知っていたようだ。「宮の中に連れ込んで」⇒このユダヤ教徒たちは、勘違いした。もともと、ナジル人の請願している者たちであったのを、エペソの外国人を神殿内に連れ込んだとして大騒ぎをした。※異邦人が神殿に入ることは、厳しく戒められていた。私刑で殺されても、ローマは認めていた。(重い慣習として定着していたようだ。)
V30:「宮の門が閉じられた」⇒“美しの門”で、内庭と、外庭を隔てるもの。事の厳重さと、物々しさを感じる。
V31,32:「混乱状態・・・・打つのをやめた」⇒エルサレム神殿の北西にアントニア城塞がありローマ兵が駐屯していた。よく暴動が起きたのかもしれない。しかし、屈強なローマ兵には、暴動で事を起こすことはできない。
V33,34:「二本の鎖…確かなことがわからなかった」⇒隊長は、何か大きな犯罪をしたろうと予想して捕まえていた。(法治国家ローマは、基本的に裁判で確定して初めて刑が確定する。)その情報集めをしていた。しかし、群集心理は、あてにならないが、このあてにならない群衆の様態から、隊長はパウロの取り調べについて慎重になった。皮肉である。
V35,36;「殺してしまえ」⇒ローマは、ますます、自分たちの統治能力を試されるようで、いくらユダヤ人の暴言であろうと、ますます、パウロをかばうのである。
適用:パウロの今回の出来事は、正に“まさか”の坂事件である。
このケースはスポーツ界でよく見る。ⅰ池江璃花子 ⅱ荻野公介
しかし、この背後に神のご計画もある。ローマ8:28 例.ⅰ笹川流れの松の木 ⅱ一人の姉妹の証
無名戦士の詩を最後にご紹介する。
人生は“まさか”という坂がある。しかし、その向こうには“まさか”という恵みの坂が待っている。
導入:『服従』= 命令をよく聞いて、おとなしく付き従うことです。その 命令が、納得できれば良いが、納得できなければ、どうすればよいか。
背景:アブラムはカルデアのウルで生まれ育ち、その後、父とともにメソポ タミアのハランに移住。どちらの町も、偶像礼拝が盛んに行われてい たが、アブラムは創造主で唯一の神のみを信じていた。
本文:V1‐3:「アブラムへの召し」真の神を信じ、異郷の地で暮らすアブラ ムを、神はご存じであり、ご自分の計画通りアブラムを召し出された。異郷の地から離れ、主が示す地へ行くように。そうすれば、すばらしい約束を与える。それは、アブラムの名が大いなるものとなり、祝福となり、祝福の源になる、というものでした。
V4:「アブラム即座に従う」神のこの求めに対し、アブラムはすぐに 行動を起こします。現実の厳しさや困難にとらわれず、直ちに従った のです。これこそ本当の服従と言えます。
V5,6:「アブラムの従順」途中で躊躇したりせず、ただひたすら歩み 続け、カナンの地に到着。しかし、そこには、すでにカナン人が住ん でいました。
V7,8:「主への全き信頼」もう一度、主の御声を聞く、主は初めから ご計画をすべて明かさず、少しずつその道を示される。主を信じる者 は、絶えず、主に信頼して、歩まなければならないことを教えている。
適用:アブラムと同じように、私たちに対しても、神は、それぞれに計画を お持ちになり召していてくださるのです。どのような形かは分からな いが、その時には、即座にその召しに応じ、すべてを神に信頼し、服従できる者になりたい。
導入:私たちの教団は、3つの宣言を出している。100周年、105周年、戦後70年宣言これらに共通しているのは戦時下当教団がおかした2つの罪の悔い改めである。
背景:パウロの十字架は、凄まじいものがあった。キリスト者には一人ひとり十字架がある。この使命に応えていく必要がある。神は、それを成して下さる。信仰には行動が包含されている。
本文:V15,16:「キプロス人ムナソン」⇒異邦人クリスチャンの宿泊場所を選んだ。
V17,18;「兄弟…喜んで迎えてくれた」⇒一般の信徒の人達が、歓迎した。※あの啓示は何だろうと思うがそれは早計。「ヤコブ…長老」⇒エルサレム教会(教団)のトップはイエス様の弟ヤコブである。信頼と皆から尊敬を受けていた。
V19,20上:「彼らは神をほめたたえた」⇒この指導者たちは、素直に称賛した。
V20下、21;「律法に熱心」「異邦人………教えている」⇒先ほどの顔と違った顔を持ち出した。☞エルサレム教団は、ユダヤ教のど真ん中に位置している。ユダヤ教に染まらなければ存続は難しい。「異邦人・・・・」⇒少なくともヤコブは信頼に足る人間であるし、物事をよく掴んでいる。もっと、エルサレムクリスチャン達のパウロ評価を訂正し、パウロの人格を守らなければいけない。
V22-24;「誓願…根も葉もない」⇒ナジル人の誓願。パウロに責任があるから、自分で処置せよ、と言いたげであるが、元々、指導者たちがあらぬ噂にブレーキをかけてこなかったからこの様になったと言っても過言でない。
V25,26:「偶像・・・・」⇒念を押すのである。☞自分たちの建前をしっかり保持しつつ、誤りの点はありませんと言っている。(どこかの国会議員と同じ。)
適用:国家に影響される教団
具体的な証を3つ。
① 8部の同盟の宣言 ②組合協会の過ち ③1942年高山教会の週報
国家がおかしな方向に行くとき教団もおかしくなる。クリスチャンはどうしたら良いか。たとえ教団、教会がおかしくなっても、設立は神が造られた。この重みは大きい。しかし歴史を見る時、地下教会に逃れ信仰を守った人は多い。
一方日本はどうだったんだろうか。一人ひとりが集まることをしないで、信仰を守っていたのかもしれない。日本にこの当時、地下教会があったという事はあまり聞かない。神は知恵をもって私たちの信仰をも持って下さる。
導入:クリスチャンは“律法主義”という言葉をよく知っている。しかし、この言葉を“本来やらなければ(実行)いけない時、やらない弁証に使用する時がある。本日は、信仰の中に“行動(行い)”が包含されていることを学ぶ。
背景:使徒の働きから、強調されている“聖霊”について学んだ。信仰生活の適用で、力の聖霊はいつも意識して歩みましょう。
本文:V7:「プトレマイス」⇒ここにもクリスチャン達がいた。一日の良き交わりであった。
V8、9;「ピリポ」⇒サマリヤ宣教の伝道者。8章の最後で行動が途絶えている。それから20年、ピリポは、同じカイザリヤにいた。「預言…娘」⇒なんと娘たちが教職者に4人ともなっていた。
V10;「アガボ」⇒11章後半、アンティオケア教会に、バルナバ、サウロが指導者とし立った時、預言者集団がエルサレムからやってきた一人。世界の大飢饉を予言した人。
V11、12;「帯の持ち主」⇒パウロの帯を使って、身振り手振りでパウロのエルサレムでの出来事を発した。
V13,14;「死ぬことも覚悟しています」⇒パウロの文字通りの十字架である。Ex.“長崎26聖人”の中に12歳のルドビコ・茨木がいた。
① 全ての人がパウロのようにならなくてよい。②自分の十字架は、トータル的な意味がある。③一人の兄弟の証。④牧師個人の証。☞大きな恵みを味わった。適用:信仰の中に行為が包含されている。EX.ヨシュア3;15,16 更にヤコブ1;22,25
適用;冒頭クリスチャンは、“律法主義”の名のもとに、やるべきことを逃れることはないだろうか。やるべき事をするとき、社会の中で、損な立場に立たされた様に感じる時がある。それは、社会が悪いのであって、それに影響されることなく、自分の十字架を担っていくことが必要である。そのくびきは「安らぎ」が来るのである。
導入:聖霊は色々な表現で表されている。以前、“バンド”という表現を聞いたことがあった。あまり使われない。本日は、使徒の働きに多く出てきた聖霊の意味について学ぶ。
背景:教会は外から、内から攻撃される。特にリバイバルの後は要注意。それを阻止するには、みことばに従う。隣人愛、特に弱者に配慮することが意外にも、阻止する基盤になる。
本文:V1,2:「コス…ロドス…パタラ」⇒先回と同じようにエーゲ海の島々を巡り、フェニキア行きの船が出ている。パタラに到着した。
V3,4;「御霊に示され」⇒ツロの兄弟たちに出会った。彼らとは初めて会った人達の様だ。ここで、1週間滞在した。初めてとは思えない旧知の中になった。彼らは聖霊に示され「エルサレムには行かない様に」勧めた。
V5,6;「祈ってから」⇒彼らとの別れである。エルサレムまで、また海路で行くことになる。
(聖霊)⇒使徒の働きの主な聖霊の意味
① “聖霊のバプテスマ”“力”☞1章5節、1章8節
これは地上に天国様態が出現したこと。クリスチャンの人生は、思わぬことが起きる。人間の力では解決できない。それを解決するのがこの力である。神の国は平安。神の恵みである。
一方、聖霊のバプテスマは8章16,17節、19章6節にも出てくる。この意味は信仰の確信(救い)である
② 聖さ☞5章9節
宗教的な意味で、異端との比較でみる。私たちの神は「聖なる霊」。「異端は、偽りの霊」。聖霊は平安を与える。異端は不安、恐怖におののかせる。
③ 未来の啓示☞21章4節、20章23節
ツロの兄弟たちは、たぶん、パウロの悲惨な状況の啓示を受けた。見方によると、サタンからの様に見える。聖霊は、このサタンの未来の行動を良しとし、警告として用いている。
適用:実は日本同盟基督教団にも聖霊について信仰告白がある。大きくとらえると、①救いの教義にも聖霊が関係している。②助け主としての聖霊(インマヌエル)
これを見ると、①のケースは教団の独自色が出ている。②は助け主、聖霊をまず表すならこの表現を使う。このジャンルの中に☞①力をもって②何時もどんな時にも終生一緒(インマヌエル)
私たちの信仰生活に適用する時、“力”の概念は、非常に大切である。信仰生活と密接に関与している。
導入:統一教会問題で揺れている。牧師が学生の頃もあった。しかし、これだけ、国会議員に入り込んでいるのは驚きである。異端が、国家指導者を操っていると言っても、おかしくない。恐ろしい事である。本日は、教会を脅かす存在について学ぶ。
背景:自分の十字架について学んだ。神の国拡大のため、犠牲が伴う。しかし、くびきとして、心に安らぎが来る。わたしの荷は軽いと言われる。(マタイ11:29.30)
本文:V25-28:「二度と」⇒パウロの告別である。非常に緊迫感漂う文脈である。「血の責任がありません」⇒無責任ではなく、もう自分はいなくなる。語るべきことは全て言ってきたつもりだ、あとはあなた方の責任。「群れの監督」⇒エペソの共同体、パウロなき後の責任はやはりリーダーに帰する。手前味噌に聞こえるような、厳しい言葉が並んでいる。結局、リーダーの自覚を大いに発奮させたものである。
V29,30;「凶暴な狼」⇒Ⅰテモテ1;19,20 黙示録;2 ☞異端の事 「自分の方に引き込もう」⇒牧師の経験から、真実を証すると、教会は信仰の自由があるため、時に混乱の憂き目を見ることが多い。例;真実な権威の場に、そうでないものが座ろうとする圧力。
V31,32;「みことばは…成長…御国を受け継ぐ」⇒(パウロの説教は、確かに緊迫感の中で、手前味噌に聞こえたとしても真実を語らなければいけない心境に立っている。)みことばがこの異端、悪しき力を排除する基本である。
V33-35;「受けるより与える」⇒パウロは、隣人愛、弱者配慮を心がけてきた。そしてこの証を通じあなた方に実物教育をしてきたという。
V36-38;「何度も口づけした」⇒なんで、突然先生はそんなことを言うのかという、驚きがあるのではないだろうか。分かれることはつらい事である。しかし神のご計画なら仕方がない。
適用:本日の告別説教の中に適用もすでに語られている。異端、また、悪しき力に対して対抗できる必要な事は、一人ひとりが、まずみことばに親しみ、理解する事であると説く。これは基本中の基本である。そして、弱者配慮の心がなければならない。その人が正しく生きているかどうかの判断に弱者配慮があるかどうかで分かる。ある意味で、その人の真実な生き方の目印と言ってよい。この正しい生き方こそ、悪を見出し、排除する勇気があると言っても過言でないと感じている。
導入:一麦教会という名前の教会がある。一麦の群れとして、このグループ教会がある。この一麦は、ヨハネ12章24節からとられている。本日は、神の国の拡大に、犠牲が伴う事を学ぶ。
背景:夜の集会の意味について学んだ。地域的聖霊臨在(リバイバル)の中で生まれた集会。
本文:V13:「陸路」⇒パウロ達は、5旬節までにエルサレムに行きたかった。トロアスを出発した。しかし、パウロは後発で陸路にてアソスまで行くことにした。☞ユテコの安否を確認
V14-16:「ミレトスに着いた」⇒相当、細かい航海の記述である。(エーゲ海の景色を見るゆとりか?) 「エペソには寄らず」⇒結局、パウロ達は急いでいた。エペソに寄れば、1週間は滞在する事になるのだろう。
V17-18;「ミレトス」⇒エペソからの距離は60k。「長老」⇒現代の牧師。「よくご存じです」⇒パウロの宣教(第1,2,3)は、少なくとも、小アジアに響き渡っていた。
V19;「ユダヤ人の陰謀」⇒イエス様が攻撃された内容の延長線上にある。①ユダヤ教の教え(口伝律法)②律法主義 そして、国外のユダヤ人の攻撃は、わが国民の救いを異邦人に伝えた。「謙遜」⇒ユダヤ人攻撃があっても、パウロはユダヤ人の救いを第一に考えていた。
V20,21;「益になること」⇒信仰と共に、キリスト者の生き方は、聖義愛が求められる。(旧約律法の心、神の国の実態) 「悔い改め…信仰」⇒福音
V22-24:「エルサレム…鎖と苦しみ」⇒パウロの神の国拡大のための犠牲。なぜ神は、素晴らしい神の国のために、犠牲を求めるか。☞神の国は、悪罪の世界に支配を及ぼすことに他ならない。当然摩擦が起きる。この摩擦で犠牲を求めてくるのは、如何に神の国を愛しているかの実物証拠。信仰の強烈な証となる。
一方、すべての者が、殉教するわけではない。人それぞれ神から与えられた犠牲(十字架☞マルコ8:34)がある。またそれは、軽く、安らぎが来る。☞マタイ11:29,30
適用:信仰の量りに応じた十字架がある。牧師には牧師の、信徒には信徒の。また、他者と比較すると、どうして自分はという事が、実は、あなたの十字架になっている。そして、この事は、全ての人に言える事であろう。
神様は、それは負いやすく、軽いと言われる。そして心にやすらぎが来るとも言われる。よく考えると、犠牲というより特権ではなかろうか。
導入:聖会である講師の説教。説教をやめようとすると、お腹が痛くなり、説教が佳境に入ると治まる。結局、朝近くまで語り続けた。本日は、“夜の説教”の意味するところを考える。
背景:日常の小さな出来事も、信仰をもって対処する必要について学んだ。
本文:V6:「トロアス」⇒パウロが、テトスからコリント教会の実情を聞く約束をした所。先遣隊と、ここで待ち合わせた。「種なしパンのまつり」⇒過ぎ越しの祭りで、春を告げる祭り。
V7:「週のはじめ」⇒主日。土曜日の夜から、日曜日の夜まで。 「パンさき」⇒Ⅰコリント11章を見ると、聖餐式と愛餐会が同時に行われていた。「夜中まで」⇒日曜日の夜に、ズーット話し続けた。☞夜集会があるのは、地域的に霊的背景がある。(例;韓国)人々は、みことば、聖霊臨在の飢え渇きを持って集まってきた。一方説教者も、神の奥義を語り、賛美、祈りの中で深い神の出会いがある。(牧師の経験、説教の種類)
V8,9;「屋上の間」⇒3階、まだ外は寒いが、人々と“たいまつ”で部屋の空気は暖かく濁っていた。窓を開けて聞いていた。「ユテコ」⇒窓に座って聞いていたが睡魔が襲って落ちてしまった。☞大変な事件。普通ならこれで解散。
V10,11;「まだいのち」⇒吃驚(びっくり)した事件で終わらなかった。さらに大きな吃驚があった。パウロの祈りによって生き返ったのである。「明け方まで…語り」⇒さらには、食事と、説教がまた始まった。
V12;「慰められた」⇒この事件がまた宣教の拡大をもたらした。
適用:本日は、夜の集会について見てきた。①地域的な聖霊臨在(リバイバル)の中で起きた象徴的出来事。②説教者、その集会の中で、深い神の交わりがある。
《牧師の韓国インターンの証》
① はじめ歓迎されなかったが… ② 独立記念館☞旧陸軍の統治下の韓国が蝋人形で表現されている。③ 2002年の訪問で、夜の集会はなかった。しかし、高齢の女性が、2~3人、夜の3時ころから祈りに来ていた。
1970から1980年代日本人は、韓国で凄い事が起きているとして、韓国詣でがあった。そして日本にリバイバルが来たかというと、一部の教会であった。(日本リバイバルクルセード)
お隣の国の影響はまだ受けていない。これから始まると信じているが、夜の集会がされるような聖霊のうねりが来ることを願っている。若者の賛美集会、祈り会。
導入:信仰のたとえ。「大きな石には躓かないが、小さな石に躓く」本日は日常の中で起きる出来事について学ぶ。
背景:リバイバルに伴う、摩擦について学んだ。この摩擦は神から来たものだから結果“勝利”である。
本文:V1:「マケドニアに向け」⇒ここの箇所は、コリント第二2章4,6,7,13で詳しく書かれている。パウロは、“涙の手紙”を書いた。「一人の人の罪を、多くの信者が処罰を断行した。」パウロは、それに対して書いた手紙。しかし、心配で気が動転している。(このパウロ先生が!) トロアスで、テトスから報告を聞く約束であった。しかし会えない。パウロの心は極限に達した。
V2:「その地方」⇒マケドニアである。そこでテトスに出会って報告を聞いた。Ⅱコリント7;5-8にその様子が書かれている。コリントの兄弟達が悔い改めている。☞パウロの喜びようが伝わってくる。 (普通の牧会者と同じように、) ☞結局、人は皆、日常の中で、他者が思う以上に傷つくことがある。「多くのことばをもって弟子たちを励まし」⇒マケドニアは一年以上居たようである。気も動転する中で、牧会者として、励ましている。※イルリコまで足を延ばしている。
V3;「そこで3か月」⇒ギリシャはアカヤ地方で、具体的にはコリントにいた。ここでローマ人への手紙を書いている。(コリント問題も氷解し、安定して執筆できた。) 「陰謀」⇒コリント、ケンクレヤから、海路でエルサレムに帰ろうとした。しかしユダヤ人が殺害計画を画策していることが分かり、来た道を逆戻りで帰る事になった。
V4,5;「ソバテロ・・・・トロフィモ」⇒各州の代表者である。パウロの宣教は、3次まで来ると、教会が独立し、立派な代表者まで同行させることができる様になった。だから殺害計画まで察知する事が出来る。☞当然、組織的なつながりが生まれていた。
適用:パウロのエネルギッシュな行動と共に、信徒に対するきめ細やかな配慮が、非常に印象的である。一方、日常の中で見せる、恐れと不安。
人は、日常生活の小さな事に、忠実に信仰で対処しなければならないことを教えられる。私達の心の中には、増幅器があって大きな出来事は、小さく感受性が受け付け、小さな出来事は、大きく受け付けるようである。小さいと言っておろそかにすると、足をすくわれる。小さくても、信仰心を備えて対処しなければならない。
導入:先週リバイバルを学んだ。リバイバルは、神の国が訪れること。それはその地の悪・罪があぶり出される。ここにリバイバルの時に起きる摩擦がある。摩擦について学ぶ
本文:V21,22:「ローマ」⇒3次伝道旅行の峠は済んだ。エペソリバイバル。宣教魂は、最終地ローマをもう狙っている。(世界の中心はローマ、すべての道はローマへ)
V23-27:「アルテミウス神殿」⇒エペソの守護神。豊穣の神☞世界から参拝者が訪れ、この地にお金を落としていった。「デメテリオ」⇒アルテミウス神殿の模型(例えば“神棚”)を売って生計を立てていた。これが売れなくなった。パウロ達を訴えたい。
V28,29:「劇場になだれ込み」⇒この訴えが、群集心理を生み暴動に発展していった。この劇場は、2万5千人収容。
V30,31:「高官」⇒アジア州の各地から選ばれた代表(行政のトップ)。彼らが、劇場に入らないように差し止めた。
V32;「何のために集まったのか」⇒集団心理の暴走は、理性を失った獣のようになり、目的意識もないまま、群集の行動性向につられて動く大変危ういものがある。
V33,34;「彼がユダヤ人だとわかると」⇒当初、この群衆は、パウロに向いていたが、それが、ユダヤ教徒(ユダヤ人達)に向き始め、危険を感じ、弁明の機会を得るため話し始めたが、アルテミウスを擁護しない弁明は、一切聞かない。群集心理はターゲットを変える。
V35-40;「書記」⇒3権の議事機関の偉い人。また法律に詳しそうである。彼は今の事態を冷静に判断し、どのようにしたらよいのか群衆に訴えた。①訴えたい気持ちはわかる。②訴えるなら正式手段を選びなさい。③現在の状況☞どう見ても、現在のところ訴えられるようなことをパウロ達はやっていない。④このことから、ローマによるこの暴動を起こした首謀者デメテリオ,その仲間たちは、騒乱罪で捕まる可能性は大きい。
書記官は、パウロに忖度した訳ではない。正当論を述べたまでで、しかし、結局パウロを擁護したのである。
適用:リバイバルに伴って、摩擦が起きる。ならば、リバイバルは求めなくていいのか。それは否である。神から出たことは神が解決を図ってくださる。勝利である。
今回は、地域的領域的であったが、個人的な場合もある。信仰成長と言ったほうが良い。やはりこの時も、摩擦が起きる時がある。しかし“勝利”である。
導入:神学生2年生の時、求道者の方をカウンセリングした。ご本人が悩んでいることが分かり、神は不思議な事をしてくださる、このお方に委ねるように促すと、「キリスト教もそんなことを言うのですか」と返ってきた。奇蹟の話は難しい。本日は奇蹟について学ぶ。
背景:2週続いて“聖霊のバプテスマ”。二つの意味。☞①力の表れ。神の国建設。②その様態を経験して信仰に確信が与えられる。
本文:V8,9:「説得」⇒パウロの宣教は、いつもユダヤ人優先である。宣教の場所がシナゴグーであることも致し方ない。前に立ち寄った時はウエルカムであった。「心を頑な」⇒やはりユダヤ人妨害者が現れた。しかし。ここまで。「ティラノの講堂」⇒今回は、異邦人集会場に移した。※講堂(スコレー☞スクール)
V10-12:「2年続いた」⇒前半の3か月と約2年併せて3年と言っている。(20:31)「驚くべき力あるわざ」⇒12節には具体的内容が出てくる。いわゆる奇蹟。☞驚異的宣教は、神の業である証明。例:牧師の経験①宣教と関係した奇蹟は経験がない。個人的な事はある。②神学校教師の証 ③甲子園の経験
V13:「巡回祈祷師」⇒悪霊を使って祈祷する者。「試しにイエスの名を使って」⇒パウロの祈りの力に驚き、それを自分も得たいと思っての行動。たとえイエスの名と言っても、その心が聖く無ければ、サタンの領域に入れられる。表面上はイエスの名であっても、悪霊が背後にいる。☞十字架も偶像になる。
V14,15、16:「お前たちは何者だ」⇒この箇所は、奇蹟でも、あっと驚くインパクトのあるものとなった。後半、この出来事により、アジア州全体が福音の坩堝(るつぼ)になっていった。☞神は、サタンを神の赦しの中で用いる。ここでは、サタンが、聖なる裁きに関与している。非常にインパクトある出来事であり、神の“常識を超えた聖さ”に多くのものが恐れを抱いた。⇒17節
V18-20;「自分の行為を告白した」⇒真のリバイバルの特徴は、集団で悔い改めが起きる事である。神の国は聖義の国である。「銀貨5万枚」⇒5万ドラクマ(1ドラクマ=労働者1日分の賃金)
適用:終末に入った。日本の世界に対する立ち位置、祭司の国として世界に神の国(平和)をもたらしましょう。このため、教会が強められなければならない。救いが起きなければならない。リバイバルを求めましょう。
導入:モーセの十戒が厳しく戒めている個所は、偶像崇拝である。人は証拠があると信じやすくなる。新約の信仰は、“霊と真の礼拝”。見えない神が、祈りの中で実存してくる。この方法が、神を見る信仰である。これしかない。偶像崇拝はこの方式を否定する。本日は、祈りの中での神の実存。この象徴的な事が“聖霊のバプテスマ”
背景:使徒の働きでは、‟聖霊のバプテスマ”が、随所に出てきた。1章5節。2章ペンテコステ。8章サマリヤの人々の救いの後の確認。10章コルネリオ一家に降りた聖霊。
先週テキスト。そして今回。聖霊のバプテスマという時、力(奇蹟)の顕われと共に、その時信仰的に認識される“確信”を、同時に表現している。
本文:V1:「弟子たちに出会った」⇒ルカは弟子と表現している。少なくともイエス様を信じる信仰者である。
V2:「聖霊・・・・聞いたことがありません」⇒旧約にも聖霊の事が書いてあるから全く分からないわけでなく、文脈の中で、聖霊のバプテスマを知らないという事。
V3:「ヨハネのバプテスマ」⇒悔い改めのバプテスマ。12弟子の何人かはこの方式で信仰者になっている。また、5節の再洗礼もしていない。有効である。
V4;「イエス・・・・告げ」⇒この悔い改めのバプテスマは、本来の救い主はイエスであるという経過的な側面もある。
V5;「主イエスの名によってバプテスマ」⇒悔い改めのバプテスマで有効であるが、再洗礼である。これは、主イエスのバプテスマの後に聖霊のバプテスマが続く。☞ゴールは聖霊のバプテスマを目指している。この様な理由で、バプテスマを強調確認するためと感じる。
V6:「聖霊が彼らに臨み」⇒まさしく、主イエスのバプテスマ(信仰義認になってから)の後に聖霊が降った。
・聖霊のバプテスマの教理的意味は、①ローマ8章9,10,11節 ②エペソ1章13節
・聖霊のバプテスマの様態は、多種多様である。①ブエノスアイレス(アルゼンチン)の在原宣教師
・サタンも同じような事をする。
適用:この聖霊のバプテスマをどのように用いるか。それは祈りの中で用いることが最善である。EX.チョウーヨンギ師の祈り
この中に信仰の確信を頂きましょう。
導入:信仰を持ったころ、聖書を読んで理解はできても、リアリティーがない事があった。後で自分自身を総括して感じるのは、信仰についてよくわかっていなかった。
背景:第二次伝道旅行が文字通り終わった。それに伴う宣教師の心と題してみてきた。①先を見越した宣教。②対象地を嗅ぎ分ける。③共同体の成長の勘所を伝授
本文:V23:「しばらく…また」⇒第一次で立ち上がった教会を問安(励まし)しながら、エペソへ。
V24:「アレクサンドリア」⇒BC332年、アレキサンダー大王が建てたアフリカ地中海側の都市。学術都市。「アポロ…聖書に通じていた」⇒当然想像できる。
V25:「イエスの事を正確に語った」⇒アポロは、旧約預言のメシヤを、何らかの理由でイエスだと認識した。 アポロにとって、自分が聖書から学んだメシヤが、事実復活したという事は、大きなインパクトになったろう。「ヨハネのバプテスマしか知らなかった」⇒このことは、“聖霊のバプテスマ”を知らない事である。信仰において、信仰の確信と深い関係がある。(6/19動画)これを知らないことは、信仰成長の点で盲点である。(救われていることは間違いないが) 福音を教える側にとっても、将来きっと壁にぶつかると感じた。
V26;「プリスキラ、アキラ・・・・正確に説明」⇒聖霊のバプテスマの本来の意味を教えなければ、教師としての資質が未成熟のものになる。
V27,28;「アカイア」⇒アポロは、コリントに行きたい。エペソの兄弟たちは、推薦状を持たせ、送り出した。「ユダヤ人たちを論破」⇒1コリ3;4を見ると、コリントで、パウロと並び称せられている。
適用:本日は、アポロの信仰を見てきた。例;牧師の父のあかし。☞唯物思考は、証拠がないと信じる事が出来ない倫理回路が出来上がる。
※生まれながらの人間は、‟信じることは証拠だ“と言った。唯物思考回路といった。この証拠は、常識的な地上の出来事。しかし、矛盾して聞こえるかもしれないが、信仰によって未来を掴み取ることは、常識を超えたしるしと不思議(奇蹟)の証拠があるから信じる事が出来る。両者ともに証拠には違いないが、地上的常識的証拠と、天国的証拠の違いである。
この信仰は、教えられなければわからない面がある。唯物的考えは、人間が生まれながらに持っている本能。
導入:牧師は、スウェーデン宣教師からバプテスマを受けた。先生は、赴任して5年くらいで移動された。少し悲しかったが、宣教師とはそういうものかと理解した。本日は宣教師の心を学ぶ。
背景:人には、入り込んではいけない領域がある。それは、身近な色々な分野で見る事が出来る。お互い配慮しながら生活していくことは、特にクリスチャンの証でもある。
本文:V18:「シリア」⇒出発したアンティキアに帰る事である。3年近い第2次伝道旅行も最後となった。「請願…髪を切る」⇒民数記6章ナジル人の請願である。パウロの心の中に、次の宣教が啓示されていたのではなかろうか。それは、大きなうねりとなる様な、ハーベストタイムのとき。(19章8節以降エペソリバイバル) この啓示の恐れとともに期待がこの請願となったのかもしれない。
V19:「エペソ」⇒交通の要衝の地。当時の人口25万人。エペソを流れるカイステル川は肥沃な土地をもたらした。またここには、世界の7不思議、巨大なアルテミウス神殿が建っていた。この偶像にも人が集まっていた。ユダヤ人も多くいた。「論じ合った」⇒この時は、ユダヤ人たちが心を開いてきた。
V20,21:「とどまるよう頼んだ」⇒さらにユダヤ人たちは、パウロにもっと話をして欲しいと懇願してきた。☞次のエペソ伝道の感触を十分つかめたのではなかろうか。(事前調査)
V21,22:「戻ってきます」⇒多くは語らない。
適用:スウェーデン宣教師が東海ブロック当時の開拓の歴史を見てみたい。(1950年から約20年間詳細な記録が残っている。)
この所から見る事が出来る。
① 1950年
最初二人の宣教師が来た。しかしその後、その年から翌年にかけて、次々と宣教師が来日している。おそらくスウェーデンミッション(SAMJ)の中で、今刈り取りである。この地を速やかに宣教しろ。神の宣教命令に応えた派遣と感じる。
② 夏のバイブルキャンプ、新年聖会が毎年持たれている。
村上も大祭があったが、クリスチャンも、礼拝の中で神と交わる大いなる喜びが与えられている。そして、この特徴は、超教派の集まりの中で特に、大いなる喜び・神の栄光が顕われるのである。それを教えたスウェーデンミッション(SAMJ)
歴史を振り返り、宣教の心を知り、次世代へつなげたい。
導入:今回のロシア侵略の中で“主権国家”という言葉が良く耳についた。これは、他者から強要、侵略を許さない領域がある事を強く認識した。
背景:ハーベストタイムについて見た。村上にもあった。これは時代の変わり目が引き金になった。今まさに時代が変わりつつある。日本宣教もチャンスが来た。
本文:V12、13:「パウロに反抗して」⇒やはり妨害はあったが危害まで至らない。問題にならない。「法廷に引いていった」「律法に反するやり方」⇒ユダヤ教は、ローマの公認宗教。パウロが「イエスはメシヤ」と言っていることは、ユダヤ教からすると誤りだと言った。
V14,15:「不正な行為」⇒ローマは多くの民族を統治、支配していた。宗教、慣習的なことは、各自の民族内で処理せよ。大きな事件(刑事事件等)はローマ法をもって適用する。「ことばや名称」⇒いわゆる宗教に関する、言葉の定義は、自分たちで処理しなければならない、という厳しい判断。
V16,17:「ソステネ…うちたたく」⇒門前払いされた、腹いせに、会堂管理者に八つ当たりをした。一方、これはガリオの処置に対する反抗である。「少しも気にしなかった」⇒無視を貫いた。これが、一つの先例となり、今後約10年間“ナザレのイエスは、メシヤ!”と、自由に福音を語る事が出来た。
適用:冒頭お話しした、国家間の主権侵害。この様な事はいろいろな場面で起きる。
①行政の組織の内部
組織が組織としてうまく運営されることは、何かの決め事が、どこのセクションが担当するのか、また内容の重要性レベルによって、何処の部なり課が担当するかがはっきりしている事。いわゆる意思決定できるか。この事が明示されており、実行されていれば混乱は起こりえない。
②友人の様な仲間の間
いわゆるプライバシーの侵害である。仲の良い友達の場合でも、家族のような気持ちで、何でも言ってしまう場合である。
自分が、他者の領域に入る時がある。「自分のしてもらいたくないことは他人にもしない。」
(対処)
自分が被害にあう事がある。基本的には、道義的領域の時は、神様に祈る事である。一方、この様な人権侵害は、いつか勇み足で、大きなことに発展する可能性がある。その時、適正な処置を公的にすることである。
キリスト者とし、自分が証の立たない行為を避け、また、祈りの中から主に解決を頂きましょう。
導入:牧師は、散歩の中で色々な人と出会う。言葉をかける中で、伝道という事はいつも心の片隅にある。本日は、収穫の時期(ハーベストタイム)について学ぶ。
背景:テントメーカー、家の教会について見た。これから終末に向けて、日本宣教は待ったなしである。大きな教団の開拓が難しくなっている。家の教会、この選択もある事を覚えたい。
本文:V5:「専念」⇒テモテとシラスが戻ってきた。彼らは、マケドニアから献金を預かってきた。パウロ達への生活に供する献金だった。「証しした」⇒パウロの伝道はやはり同胞ユダヤ人が優先であった。
V6:「ちりを振り払って」⇒この状況は、13:51(第1次伝道旅行)に似ている。パウロは同じ様なユダヤ人の妨害を受けつつ、懲りずに異邦人伝道と共にユダヤ人にまず語ろうとしていた。☞本命と言われる者たちが、一番妨害者であり罪深い。
V7,8:「会堂の隣」⇒妨害にあい、シナゴグーが使用できなくなった。面白い事にその隣がどうも集りの場になったかもしれない。「会堂司」⇒シナゴグーの管理を任されている者が一家を上げて救われてきた。「コリント人も」⇒異邦人が多く救われてきた。☞リバイバルの兆し
V9-11;「恐れないで」⇒ユダヤ人の妨害も、暴動までに発展しない。聖霊の導き。「語り続けなさい…1年6か月」⇒神が与えたハーベストタイムの始まりである。
適用:村上の伝道・救いを考えている。
日基村上の資料から;1950年(昭和二五年)、ラクーア音楽伝道団来る。会衆二千余名。決心者500名。教会ではこの伝道の決心者の中から受洗者11名。求道者多数。賀川豊彦、村岡花子、植村環、来会伝道集会を行う。
終戦、天皇制軍国主義から、アメリカ主導の民主主義に代わるという事。時代が変わる実感をこの村上の人々も感じたのではないだろうか。
牧師は、選挙に関与したことはなかった。今回不思議な関係からいつも祈らされている。一方、個人の話だが、コロナ、ロシア侵略、総合的に時代を考えると、時代の変わり目に差し掛かっている実感をする。これは、多くの人が感じていると想像するが、この時代の潮流に、日本が、村上が被る時、チャンスの時が来るのではなかろうか。一方、それは、妨害を受けるかもしれない。しかし、神が守ってくださると信じる
2022年6月19日 礼拝説教
聖書箇所 詩篇119篇145―160節
説教題 「きく、みる」 下川友也師
≃下川先生紹介≃
牧師と下川先生との接点をご紹介したいと思います。
牧師が、献身を志す中で、母教会(愛知泉キリスト教会)に先生が来てくださいました。目的は、キリ神(東京基督神学校)の学校紹介でした。母教会の先生の紹介もあり、半ば入学することが本決まりのような空気でした。いったい、本当に入学できるのか近づくにつれ不安になっていましたが、何よりも献身の召しについて何度も確認させていただいたのを覚えています。
下川先生は、聖書通読1000回を目指しておられるだけあって、授業が始まる前、聖書から答える小試験がありました。先生は、これは成績とは関係ありません、と前置きされていましたが、私はひどい成績でした。自分が本当に聖書を知らないという事を突き付けられたものでした。
1年生1学期の時、神学校に入って、職場時代は、一日8時間仕事をしていたものが、勉強のためとはいえ、解放されている自分に、「何か遊んでいるのではないか」と自問自答する様になり、心はほとほと疲れていました。夏休みに入る有る時、先生が、キリ神の学生に午後のメッセージをされました。聖書は、ヨハネ21章15節からでした。復活のイエス様が失望落胆のペテロに、「私の羊を飼いなさい」と3回も言われた。ペテロは大口をたたいて、「はい」とは言えなかった。しかし、このペテロが、ペンテコステ以後すっかり変わって、素晴らしい指導者になった。この失敗もご摂理の中で必要だという内容でした。このメッセージで、自分のもやもやが吹っ切れたのを覚えています。
神学校3年生のときか、2年生のときか覚えがないが、土曜日リバイバルを求める学生が、賛美集会をしていた。この集会が終わって、下川先生のお宅へお邪魔した。目的は朝食を頂く事であった。そこにいたいつものメンバーは、4名だと思うが、ヨリ先生が温かく迎えて下さり、ご馳走を用意してくださった。何を話したか覚えがありませんが、確かにホットタイムであった。感謝。
導入:「日曜日、部長は牧師になる」テントメーカーという。本日は、開拓途上の教会“家の教会”と、自活しながら伝道・牧会する姿から学ぶ。
背景:アテネ宣教は、気薄なものとなった。元々、計画になかった。支援者もいない。パウロは、このアテネも早々と去ってコリントへと向かう。哲学者が信仰を持つことの難しさを見た。
本文:V1:「コリント」⇒陸路、海路の交通の要衝の地。貿易が盛んであった。人も多く、娯楽も盛んであった。世の常として、不品行が町に蔓延していた。
V2:「アキラ…彼の妻プリスキラ」⇒AD49ユダヤ人追放令で、コリントに来ていた。故郷はポント。(移動することについて抵抗がない)
V3:「天幕作り」⇒移動式テント、またはおおい布を作製。パウロは、仕事柄天幕作りを生業とするのが習慣であった。パウロは、この夫婦と共に生活して、伝道と共に天幕作りに励んだ。
V4:「説得」⇒まさにテントメーカーである。働きつつ、伝道に奉仕。
≒アキラ、プリスキラ夫婦≒ローマ帝国内を縦横に活動する家の教会指導者
使徒18:24―26☞(エペソにて)若い教職者を指導している。 ローマ16:3―5☞(ローマで)パウロはローマの家の指導者にあいさつする中で、真っ先に夫妻を上げている。 Ⅰコリント16;19☞(エペソにて)エペソに居るパウロが、コリント教会へ宛てた手紙で紹介している。 Ⅱテモテ4;19☞(エペソにて)獄中からエペソの牧師にあてた手紙の中で夫婦を紹介している。
以上の様に、天幕作りに励み、家の指導者として教会員を牧会し、一方、世界宣教の一翼を担い帝国内を縦横に移動するご夫妻を見る。
適用:テントメーカーとして、家の指導者の勧め
(理由)①教会が牧師を支えられない。※ⅰ日基2030年問題 ※ⅱ基本的に牧師は支えられるべき(旧約、Ⅰコリント9章14-18) ②宣教・牧会の自由性の担保 ※ⅰ組織が大きくなると硬直化(2030年問題の原因)が起きる。☞家の教会は、自由な福音宣教が広がる。
(注意事項)①2足のわらじ(どちらも責任は重い)※信徒の方の理解が必要 ②宣教の妨害(異端、信仰、混乱)がいくつもある。※一方教団に所属すると、支援、情報の共有等益となる事はある。
(まとめ)
宣教の流れは、テントメーカーによる家の教会の方に流れている。日本のリバイバルは、終末に向かって待ったなしである。
導入:本日は、教会の3大行事の一つ“ペンテコステ”。ひとことで言うと“聖霊降臨”という。意味するところは、天国様態が地上に降り注いだ。天国(終末)がはじまった。
背景:救済史(アブラハム→新天新地)は漸進的に推移している。旧約から、新約に代わって、「祭儀信仰→信仰義認」が救いの形となった。聖霊は、その実体的担い手である。
本文:V14,15:「朝の9時」⇒聖霊降臨の実態は、天国様態である。その実態が聖霊である。人々は、てっきり酒に酔っていると思った。だから、「朝の9時から酔っている様な者はいません。」と言った。
V16:「ヨエル」⇒この現象は、預言者ヨエルが語った(ヨエル2:28-32)その事の成就だ。
V17,18:「終わりの日」⇒天国(終末)が、地上に訪れることは、未来の先取りである。(終末が始まった。) 「霊を注ぐ」⇒一方的な神の主権の中でされる現象。これは神の業である。またリバイバルの原型。
「霊を注ぐ…夢…幻…預言」⇒この時に人々が受けた内容は、将来への希望を含めた喜び、が聖霊臨在という形で表現されている。※1預言は聖書の記述と大きな関係がある。※2この聖霊臨在を、“栄光”“力”が、今教会に来ているというのだ。この喜びをⅠペテロ1;8「ことばに尽くせない、栄に満ちた喜び」と表現している。
※3信仰の確信☞ペテロを見ると、2,3週間前、イエス様の十字架磔(はりつけ)の時、隠れてしまった。しかし、4章のペテロは豹変した。なぜか、聖霊のバプテスマを経験した。その意味は、エペソ1:13が教えている。
V19,20;「天に不思議…地にしるし」⇒天変地変である。神の裁きである。リバイバルの時は、裁きをもって悔い改めに導く場合が多い。2章後半ペテロの説教(V35「十字架につけた」)を聞いて、群衆は、救いの招きもないまま、「どうしたらいいのか」と救いを求めてきた。※聖なる無秩序
V21「主の御名を呼び求める者はみな救われる」⇒裁きが、裁きで終わらない。まだ地上の時代である。
適用:本日は、聖霊降臨。聖霊のバプテスマの経験。天国様態に触れることが、一人ひとりの信仰を確信に導くことを思うと。(祈りの中で、疑似体験) いかに大切か。
祈りの中で、個人における聖霊臨在体験。教会におけるリバイバルを祈り求めて行きましょう。
導入:本日は、偶像崇拝に関連する人々、特に哲学者の信仰について学ぶ。
背景:多様性について見た。聖書は画一性のメッセージが多い。現代の多様性にいかに対処するか。日々の生き方で、聖書に親しみ、信仰を働かせ、聖義に生きる。
本文:V22,23:「宗教心にあつい」⇒言語から言うと、“迷信深い”ともとれる。(求め方が問題である。)「知られていない神」⇒偶像礼拝をしているとき,忘れていない頼み事はないか、そのような心が起きる。忘れていることを防ぐ神が、この神の祭壇。「教えましょう」⇒この後、全知全能の神が出てくる。
V24,25:「人の手によって…いのちと息と万物を与えておられる」⇒教会学校で、真の神は、“神が人を造った”偶像は、“人が神を造った”神→人の順序が必要。創造主は、全知全能。※この順序は信仰生活にも生かされる重要な順序。
V26:「お定めになりました」⇒(ここから、一般啓示の神が出てくる。)人類の歴史を考えると、聖書の法則が当てはまる。“聖義に生きれば国は安定し栄える。”“一方悪に走れば、神から壊滅的な裁きに陥る。”例;アッシリヤ、バビロン、結局ロシアも同じ轍を踏む。
V27-29:「求めること…見出す」この世界の詩人も一般啓示の中から、この世界が神によって造られ、私たちはその被造物(神が全てご存じ)と、認識している。
V30;「無知」⇒結局、アテネの人たちを無知と決めつけた。この無知が、偶像礼拝に走る。※哲学が一杯で、真理が頭に入っていかない。
V31:「悔い改め…一人の方によってさばく…復活…確証」⇒これはパウロの福音説教だが、彼らの耳に残っているキーワードかも知れない。☞神認識の無知の原因は、哲学。一方この無知が、多くの偶像を作り出した。
V32-34:「嘲笑った」⇒アテネ伝道の難しさは、哲学(頭は、自分の考えで一杯)→神に対する無知→偶像作成。この順序で陥る。
適用:知的な人たちの信仰について見てきた。自分で生きるという事は、すべて間違っているわけではないが、神に聞くという順序が全然わかっていないという危うさがある。結局、人生の壁にぶつかって初めて目が開かれるという事だろう。福音ををこの人たちに届けるには、人生に困窮した時、手元に福音がある事である。(チラシ、聖書はもとより、クリスチャン、教会が心理的に近くにいるという事。)
2022年5月22日11:00AM 礼拝説教
聖書箇所 創世記18:9-15、21:1-8
説教題 「笑う門には福来る」 小池早苗師
聖書個所
創世記 18章9―15節
9彼らはアブラハムに言った。「あなたの妻サラはどこにいますか。」彼は答えた。「天幕の中におります。」
10すると、そのうちの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには男の子が生まれています。」サラは、その人のうしろの、天幕の入り口で聞いていた。
11アブラハムとサラは年を重ねて老人になっていて、サラには女の月のものがもう止まっていた。
12サラは心の中で笑って、こう言った。「年老いてしまったこの私に、何の楽しみがあるでしょう。それに主人も年寄りで。」
13主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑って、『私は本当に子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言うのか。
14主にとって不可能なことがあるだろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」
15サラは打ち消して言った。「私は笑っていません。」恐ろしかったのである。しかし、主は言われた。「いや、確かにあなたは笑った。」
創世記 21章1―8節
1主は約束したとおりに、サラを顧みられた。主は告げたとおりに、サラのために行われた。
2サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
3アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。
4そしてアブラハムは、神が命じられたとおり、生後八日になった自分の子イサクに割礼を施した。
5アブラハムは、その子イサクが彼に生まれたとき、百歳であった。
6サラは言った。「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう。」
7また、彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子に乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、主人が年老いてから子を産んだのです。」
8 その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。
導入:最近、多様性という言葉をよく耳にする。本日は、多様性の中で、神の“ことば”を聴く重要性について学ぶ。
背景:聖書信仰を見てきた。結局、神により頼まず、自分の力で生きるとき、それが善であれ壁にぶつかる。
本文:V16:「アテネ」⇒古代ギリシャの中心であったが、BC146年ローマに滅ぼされてから、過去の栄光は取り去られたが、まだその威光は残っていた。観光客も訪れ、広場では、哲学論議もされる。一面、文化の街とみることもできる。
V17:「論じた」⇒パウロのここでの宣教方法は、この場所に合わせた方法をとった。論議の中から、福音を語ろうとした。
V18:「おしゃべり」⇒雀が残飯をあさるように、知識のくずをあさっている様だと決めつけた。※平和で、芸術文化が反映する所、多様な価値観が生まれるのではないか。福音の価値もわからない。(パウロの熱心をおしゃべりと決めつけた。)
V18:「イエス…復活」の言葉が彼らには、好奇心を誘ったようだ。
V19、20:「アレオパゴス」⇒元々は裁判をする所。外国人講師の審判も兼ねていた。それよりも、パウロが熱心に語るのを聞いて、きっちと聞きたいと思ったのであろう。
V21:「日を過ごしていた。」⇒日夜汗水たらして働いているものから見ると、許せない連中に映るかもしれない。しかし、文化・芸術の世界(一般社会ベースかもしれないが、人間の生きるということを高揚させる働きもある。)※ニューヨーク、教会の賛美
適用:平和で、文化、芸術が生まれると、そこには多様な価値観が生まれてくる。
この多様な価値観が、聖書の画一性と、衝突するときがある。例;LGBTの問題☞聖書は、レビ記18章で、同性婚“L”“G”を厳しく戒めている。現在、教育の現場でこれを認める発言もあると聞く。
確かに多様性の時代に今いる。正しいものを見極める必要がある。
どうしたらよいか。信仰者は、迫害されても、聖(真実、誠実、誠)に生きる。み言葉と祈りと、この裏打ちされた証が、守ってくれる。(世の生き方を繰り返していると、真実に対し、敏感に反応しなくなる。)
導入:牧師が神学校入った当初、3人の方が暗示めいたことを言われた。結局、“聖書信仰について気薄”という事を、見抜いておられた。神学校で教えられたことは、聖書信仰であると言っても過言ではない。
背景:集団の罪、日本は、至る所で形を変え、スケールを変えてはびこっていると言って過言でない。クリスチャンが、これに歯止めを掛けなければ、神の国はやってこない。
本文:V10:「べレア」⇒テサロニケを追われたパウロ達は、西の約50キロ離れたべレアへ逃げた。ここにもユダヤ人の会堂があった。ここでも福音を語った。※逃げることが宣教に役立っている。
V11;「毎日聖書を調べた」⇒ここの人たちは、聖書信仰に立っていた。「素直」⇒たんなる知識として聖書を知るだけではなく、信仰生活の土台として聖書が生きていた。☞この事が文字道理聖書信仰である。
V12;「彼らのうちの多くの者」⇒ここではユダヤ人も。たくさん救われてきた。勿論ギリシャ人もである。
V13;「暴動」⇒テサロニケで、暴動を起こしたユダヤ人たちは、べレアにもやってきた。この問題は相当根深い。福音宣教は、時と場所によっては、社会に大きな摩擦を呼び起こす。(神の国は、正に、罪と悪にまみれたところに構築されていく。)
V14,15;「アテネ」⇒パウロは、身の危険を感じて逃れた。(宣教と迫害は密接に関係している。) テモテとシラスは、しばらくベレアに留まったが、パウロは兄弟達によってアテネまで連れていかれた。
適用:聖書信仰について考えたい。まず、聖書はどの様に書かれたか。①霊感(テモテ3;16)②神の口の息吹 ③旧約、新約の例 ☞十全的霊感による誤りなき神のことば。ここには、人間の考えは一切入る余地はない。
ここを土台として、信仰生活に適用しなければならない。ローマ7章18~は、良い事をを願っていながらできない自分が描かれている。何が足りないか。神の知恵、神により頼むことがない。 例;荻野公介
一方人間は、この聖書信仰が、なかなかわからない。冒頭、暗示めいたことを言われたが、聞けば、子供でも分かるようなことであるが、それを信仰生活の中で適用すると、時々頓珍漢な事を行っている自分がいる。例;牧師
みことばに親しみ、祈りを積み上げましょう。
導入:世界は終末の様相を呈している。災害なら、“仕方がない”とあきらめもつく。
しかし、戦争は、人間のすることである。意思を持った人間のすることである。本日は人間の罪について学ぶ。
背景:しかるべき時に、しかるべきことを、勇気をもって発信する。これは神の国を拡大発展させることである。※与えられた信仰の量りの中で。
本文:V1:「テサロニケ」⇒ピリピから、テサロニケにつながる街道が“エグナティア街道”‟すべての道はローマに通ず”、ローマ軍がこの道を進軍していった道である。テサロニケは、マケドニヤの首府。海港である。ユダヤ人もたくさんいた。
V2,3;「論証した」⇒旧約聖書から、イエスの苦しみ、復活を説き起こし、この方が来るべきメシヤ(救い主)である。待ち望んでいた方だと説教した。
V4;「大勢」⇒救いを求めたのは、少数のユダヤ人。一方、異邦人は大勢である。求道を始めた。
V5;「ユダヤ人…妬み…暴動」⇒パウロ達のミッションは、ユダヤ教の一派と思われていた。ユダヤ人は、基本的に、この救いは自分達に与えられた信仰で異邦人優先に発信されては納得できない。挙句の果て、自分たちはこの街で、異邦人として生活してきたのに、たまに来て、ユダヤ教のニューリーダーの様な態度をされては許せん。
V6;「ヤソン」⇒パウロ達が宿泊していた場所。彼らは長らくいたようである。パウロ達は問題を察知して、身を隠した。その腹いせのやり玉にあたったのが泊めていたヤソン達であった。
V7-9;「別の王」⇒妬み、暴動を正当化する内容が「別の王」。国家騒乱罪にすり替えた。
適用:本日は集団的罪について見てみたい。世の中では、悪がとぐろまいているケースがある。人間は、味方がいると、結構大胆になる。批判でもされようなら、様々な妨害を企ててくる。(故なき暴言、村八分、無視等)自分たちは、だれも見ていないと思っても、社会は、この小さなグループの一部始終を冷静に観察している。神様が、正当な取り扱いをされる。
この様な罪を避けるにはどうしたら良いか。詩篇119篇に印象深い言葉がある。「環境がいくら悪くても律法、みことばから目を離さない。」「律法、みことばを心から喜ぶ。」神は、苦しみの中から、力、知恵、慰め、励ましを与えて下さる。この喜びが、さらに神と共に生きる道を歩ませて下さる。
導入:ウクライナ大統領は、各国、国連に力強い発信をしている。少し行き過ぎているように感じる時もあるが、現代世界の環境、背景を考えれば当たり前のこと。本日は、必要な時に正しい発信、態度をすることについて学ぶ。
背景:「神がことばを発せられると、出来事が起きる」地震と共に神の業が起きた。人間的には思わしくないように見える時でも、神の国の建て上げには必要であった。☞看守一家が救われた。
本文:V35,36:「釈放せよ」⇒普通なら、助かった。有無を言わず、すぐ立ち去るであろう。しかしパウロ達は、言わなければならないことがあった。
V37:「ローマ市民」⇒ローマは、法律の国と言われる。少なくとも、市民である者には法の恩恵が手厚く守られている。(参照①ローマが拡大した背景②法治国家とは③牧師の経験した法の取り扱い)「判決」⇒ローマ市民には、刑が科せられる前に、絶対的に裁判の機会が与えられなければならない。パウロは、難しい状況であったが、はっきりと言い切った。
V38,39:「なだめ…立ち去るよう頼んだ」⇒長官は、ピリピにおける行政の長である。相当な立場。その者が、謝りに来たのである。ローマが法治国家で、市民に対する法による安全の担保が如何に大きいかを表している。
V40;「リディアの家に行った」⇒紫布商人の姉妹は、信仰が成長しつつあった。この所で何らかの集会がされていたであろう。パウロ達は、キリスト者として言うべき時が来たときは発言(態度をはっきりとさせる)するようにと勧めた。
適用:ロシアの横暴を見ていると、小国ウクライナがよく戦っていると感じるが、個人に当てはめると、集団で、個人を威嚇するようなとき、個人が正しいと思っても簡単には発言することは困難である。今回のテキストはこのような環境での発言である。
自分の力で発言しようと思っても、難しい。神の前に誠実に生きているものが、神から受ける聖霊の力が後押ししてくれると信じる。できないときもあるだろう。神から与えられた量りの中で、正義を貫くことが求められる。祈りつつ神の国を建て上げようではないか。祈りなくしては難しい。
導入:牧師が、イースターに初めて出会ったのは求道者の時であった。印象は、清々しい、希望に満ちたものが残っている。
背景:イエス様は、弟子たちはもちろん多くの人に復活の姿を現し、間違いのない歴史的事実を証明された。
本文:V13:「エマオ」⇒温泉地のようだ。
V14,15:「話し合ったり論じたり」⇒弟子達は、復活を目撃した女性たちの話を、ばかげた話として取り合わなかった。しかし気が気でならないのも事実「イエス…近づいて」⇒この二人の所に入ってこられた。V16「目はさえぎられて」⇒結論からイエス様が見えない。(公生涯一緒にいたのに)
V17,18:「何のことですか」⇒イエス様は二人の話が何か聞いた。「あなただけがご存じない」⇒あきれ顔の弟子。馬鹿にしているようにも聞こえる。
V19-21: 「解放する方」⇒メシヤとして希望をきた。しかし、世の指導者達は殺してしまった。
V22-24:「あの方は見当たりません」⇒彼らの一番大きな関心事を話した。
V25-27:「ああ愚かな者たち…説き明かした」⇒旧約聖書には、メシヤの到来が約束されている。彼らの霊的盲目を嘆かれた。
V28-31:「食卓…パンをとって神をほめたたえ」⇒最後の晩餐の時イエス様が突然された所作である。彼らにとって、非常に驚きではないだろうか。これで、彼らの目が開かれた。⇒「目が開かれ」☞現代の私たちに当てはめると、復活のイエス様は、聖霊という形で顕われる。生きて働く聖霊はいつも、まじかにおられる。しかし、聖霊臨在という形で、天国にお住いの聖霊を見ることになる。「見えなくなった」⇒SFの話ではない。まさしくイエス様は天国にお住いのお方である。不足のない完全な所天国。
V32「内で燃えていたではないか」⇒地上的目でも神をある程度発見する。
適用:弟子たちの目が開かれたのは、印象深い所作によった。生きて働く聖霊を知るのは、聖霊臨在である。神の側から、地上の人間に近づいて下さって天国の神を知ることになった。しかし、私たちの側からから、いつも天国の神を知る必要がある。「信じるものになりなさい」☞信仰が可能にする。天国、そこは完全な所。悲しみ涙はない。また、聖霊の住むところ、力があり、知恵がある。この天国を信仰という形で知る(体験する)必要がある。
今、兄弟姉妹には何が必要でしょうか。
導入:釈迦、マホメットの死に方は、静かで平和に満ちたものと言われる。しかし、イエスの死は異常なくらいむごい死に方でした。
背景:公生涯に入られたイエスは、福音を宣ベ伝え、指導者たちの逆鱗に触れ十字架刑に。
本文:V26:「クレネ人シモン」 十字架を追わせられる。
V27-31: 「嘆き悲しむ女たち」 十字架を背負われた主イエスの後について行った。
V32.33:「二人の犯罪人」 主イエスとともに十字架つけられた二人の犯罪人。
V34-38: 「民衆、議員、兵士たち」 兵士は、ただ刑の執行に従事。
民衆は高みの見物。 議員は罵倒する。
これらの人たちの姿は私たちと無関係なものではない、 十字架をどう考えているのか問われる。
適用:主イエスの死は単なる処刑ではない。奇蹟的事件である。人間には 理解できない不思議な出来事が起こっている。 V47 では、百人隊長 も告白しています。 V48 では、 民衆にも深い感銘を残しました。 主イエスは神の子であって、私たちの罪の身代わりとして死なれたのです。
傍観者的態度は、十字架に関しては許されないのです。今週は受難週です。十字架を偲び感謝して過ごしましょう。
導入:“ダーバル”という言葉がある。律法、ことばという意味と共に“出来事”という意味がある。神がことばを発せると出来事が起きる。この出来事は、神の国建て上げである。
背景:占いを見てきた。人生の不安は未来に関することが多い。私達の信仰は、神の国を建て上げるという中に、当然に未来予知が含まれる。
本文:V19;「金儲けの望みがなくなった」⇒心情的にはわかるが、社会に占いがなくなることは、いいに決まっている。
V20,21;「風習を宣伝しています」⇒当時、AD49年か50年ローマでユダヤ人追放令が出された。“この者たちは、社会に混乱を起こす”そのニュースはこの地にも行き渡っていたろう。何の風習かはわからないが、でっち上げに相当する。
V22-24:「むち打ち…足かせ」⇒この文脈を見ると、恐怖、緊迫感が伝わってこないが、実は彼らの中に十分あったろう。Ex.マリウポリの惨状
V25:「祈り…賛美」⇒クリスチャンは、どのような環境でも、「信仰・希望・愛」を持たなければならない。持たなければというより神様が与えて下さる。人間的に見ると難しいが。「聞き入っていた」⇒まさに聖霊が臨在した。聖い、正に威光・尊厳・栄誉が満ち溢れた。
V26:「扉開き…鎖が外れ」⇒賛美に応答した神。☞神がことばを発せると、出来事が起きる。
V27;「自害」⇒突発的な行動。言われ続けてきた。責任の重さ、また殺害されること。
V28、29:「みなここにいる」⇒看守の責任と殺害からの恐怖から一転、考えられないことが起きている。囚人が脱獄することなくここに居る事。「ひれ伏した」⇒神の圧倒的な存在に驚いた。いわゆる天国的経験。※ルカ5:8
V30「救われるためには」⇒人は、この様な経験をすると、生きている事の土台が根本から覆される。生そのものの存在の違いに目覚めるのだろう。
V33,34;「家族全員が、すぐにバプテスマを受けた」⇒家族への救いへとつながっていった。
適用:神がことばを発せると、出来事が起きる。神のご計画は完全である。現代、終末的な様相を世界は示している。①コロナ感染拡大 ②ロシア、ウクライナ侵攻 これらは、人間の目に忌まわしいものに違いない。しかし、神がことばを発している。神の国が世界的な意味で建て上げられていく。希望をもって、終末を生き抜きましょう。
導入:私たちを取り巻く環境、占いに関することが多い。それも日常的で、知らない内に入り込んでいる。本日は占いについて学ぶ。
背景:教会成長の節目節目で、神様は恵みを与えて下さる。一方、その恵みを認識し、成長の何にフォーカスを与えるかは重要な事である。
本文:V16;「主人たちに…利益」⇒貴婦人が先回は出てきたが、今回は、奴隷的身分の女性。占いによって、金もうけをしている主人がいた。占いがはびこっている。
V17;「…宣ベ伝えています」⇒占いの背後にはサタンがいる。サタンはイエス様が背後にいると、やたら好意的に揉み手で近寄ってくる。(マタイ3:11) 結局、サタンが一番恐ろしいのは、イエス様。
V18:「この女から出ていけ」⇒イエス様の名は、力ある。サタンが追い出された。
(占いについて)
占いと、魔術(この表現がされないことが多い。) が対で出てくる。※魔術はサタンに自分の願いを祈祷・儀式する。占いは、自分の願いでサタンに未来予知を求める。
① 聖書は厳しく警告⇒レビ19:31、申命記18:10-12(火の中は魔術に関する事)
② この罪は偶像崇拝⇒偶像崇拝は、十戒で一番に禁止されている。また、その被るのは主の恵みが閉ざされる。歴史を通じて
③ 世にはびこる⇒使徒18章、第3次伝道旅行、エペソではリバイバルが2年近く起きた。この時(19節)魔術の書物をもって焼き捨てた。(5億円)いかに多く世にはびこっていたか。旧約では、イザヤ8:19は、社会不安の中で、人々が、占いに頼る姿が出てくる。
適用:魔術、占いは、社会にはびこり、偶像崇拝の罪の故、世代を超えて、神の祝福が貰えなくなる。
気が付くと、クリスチャンも、この様なものに頼っていることがあるのではないか。
私たちの目標は神の国を信仰によって建て上げる。未来予知だけを切り取って考えるべきではないが、神の国建て上げは、当然に未来予知が含まれてくる。それは、十字架復活の核心部分である。
もう一度、へブル11:1、エペソ1:13,14、ローマ8:9-11を考えよう。新約の時代は、終末の時代(天国の突入)天国様態(聖霊臨在)☞信仰の確信。未来を掴み取ることが生まれる。
導入:教会が成長するとき、そのプロセスの中で、神様は必要な恵みを与えて下さる。本日は、開拓でも、教会の場所探しの段階でどの様な恵みを与えて下さるか学ぶ。
背景:“マケドニアの叫び”福音は、私たちが思っている以上に、拡散していく。パウロにとって、世界宣教は小アジアと思っていた。しかし、神の思いはもっと広かった。彼らは聖霊の導きを受け入れた。
本文:V11;「トロアス…」⇒ついにヨーロッパ大陸に足を踏み入れた。
V12;「ピリピ」⇒BC31年ローマの植民地になった。交易、軍事的に重要な地。首府よりも栄えていた。
V13:「祈り場…川岸」⇒ヨーロッパでは、シナゴグーが見つからない。いかに礼拝(集会)の場を見つけることが大切か。(礼拝には信仰に関する多くが含まれている)ここで説教を始めた。
V14:「リディア」⇒当時の高級な紫布を扱う女性が中にいた。「神を敬う」⇒一般恩恵の中で人は元々神を求める本能がある。その女性が、説教を聞くに及んで、自分が求めていた神がここにおられる。出会いである。
V15:「バプテスマ」⇒この女性は、自分ばかりでなく家族までも救いに導いた。
教会が正に始まろうとする時、このような人を備えて下さる。その備えの中で、中心的なことは、個人的な関係の構築。現在親友という言葉をあまり聞かないが、心の内を話すことが出来る存在。それはこの個人的な関係であろう。牧師と信徒は、理解することには限界があるが、それでも、牧師を支えるよくわかった信徒の存在は、教会の礎を据える中で大きな存在である。
適用:例、“大森キリスト教会”の開拓の時。
教会は牧師ひとりで成長することは無理であろう。共同体として、皆で支えなければならない。一方、そのような中で、開拓間際の時に、教会を支える親密な兄弟姉妹が与えられることはよく聞く。牧師と一対一(または家族の関係)の中に、信頼という大切なものを醸成させてくださる。
教会成長のプロセスで、神は必要なものを与えて下さる。
村上は、どうだろう。聖書に親しみ、終末異端もはびこるかもしれない中、教会として聖書からそれを見分ける目を持つ。
導入:日本に来た宣教師の日本人観。戦国時代、明治期、「菊と刀」→品格ある日本人。一方、陰湿な悪を持つ日本人。この日本が、世界にどのような立ち位置なのか学ぶ。「マケドニアの叫び」の適用として。
背景:人を備える神。パウロはテモテという運命的な出会いがあった。バルナバが欠けた後、このパウロの同労者、弟子のテモテを備えてくださった。
本文:V6;「アジア…聖霊…禁じられた」⇒パウロの宣教は、小アジア半島全体が、彼の世界宣教であったようだ。このアジアは、“アジア州”いわばエペソに行きたかった。しかし、聖霊が禁止した。アジア州の境界、ガラテヤ州フリュギア地方の境界ここを通るうちに、ミシアの近くまで来た。
V7;「ビティニアに進む…許さない」⇒パウロにとって、アジア全体が宣教とばかり思っていた。しかし、またもや禁止された。まだわからない。
V8:「トロアス」⇒結局、港町トロアスまで来てしまった。
V9:「マケドニアに来て……助けて」⇒有名なマケドニアの叫びである。パウロは初めて分かった。神は、世界はもっと広く、ヨーロッパに渡れ!と仰っている。※福音は、すでにパウロの行く先々で、伝わっていたであろう。しかし、その本質を聞きたい人が沢山いた。
V10:「確信」⇒人の計画は、全く思ってもみない方に展開されることがある。神のなされることは不思議である。聖霊の導きは、確信へと変えられる。
適用:パウロの宣教が、覆された。「マケドニアの叫びである。」一方、一貫して一つの方向性を導いていることもある。私にとって、日本宣教は、献身した時からの思いである。現在も揺らがない。①冒頭、日本人の優秀さと、その逆の陰湿さは。日本宣教を困難にしているかもしれない。だからこそ日本人に救いが必要である。②終末的な様相を示している世界にあって、日本が世界に働くことができる立ち位置。祭司の国になる。③日本宣教を考えると、古いユダヤ教、キリスト教の痕跡が至る所にある。これも一つの日本のルーツには違いない。神の導きを感じる。
日本宣教を考えるとき、個人の信仰についてはさることながら、どうしても教会について考えることは、避けて通れない。具体的には、教会が力を持たなければならない。ⅰ聖霊臨在が生かされる信仰 ⅱ教会政治にはっきりしたルール。 ⅲ聖書信仰に立つとき、神の裁きも取り扱う。
導入:牧師の証。水道課集金人さんの採用。本日は、人を備えられる神について学ぶ。
背景:人生は、試練の波、喜びの波が押し寄せたり、ひいたりする。これは、私たちが、神様のキャンパスに、筆を持って絵を描いている姿。(色は喜び、黒は試練)この絵自体が神の栄光を表している。試練が大きいことは、微に入り細に入り素晴らしい絵を作り上げている。
本文:V36;「どうしているか」⇒第一次伝道旅行で生まれた教会、兄弟姉妹を励ましに行く励ましの訪問伝道。
V37-39;「連れて行かない」⇒パウロは、まだ人生の訓練が足らないと判断した。しかし、バルナバは、これから訓練すればよいと考えた。「激しい議論」⇒相当な議論のようだ。キリスト者は、譲れない信仰がある。このため、激論になることがある。お互い信頼しているクリスチャン同士だから起きうる。
V40-16:1:「リステラに行った」⇒結局、小アジアの内陸を通って、一次伝道旅行で伝道した場所を訪れた。「テモテ」⇒パウロは、この弟子であり同労者を、最大の言葉で賛辞を送っている。神様は素晴らしい器を備えて下さった
V2、3;「割礼」⇒なんと、あれだけ否定していた割礼を、テモテには施している。異邦人にとっては、信仰の条件として取り扱った。しかし、ユダヤ人にとっては、歴史、民俗の良き繋がりとしての慣習として捉えていたようだ。(参照Ⅰコリント9;20)
V4,5;「増えていった」⇒神の国は、恵みが自然である。当然キリスト者の数も増えるであろう。
適用:私たちの年間目標聖句は、キリストの体を建て上げるである。整理すると、この理由は、①神の国拡大発展。②神に栄光を帰し、神を喜ぶ(礼拝)特に②は、嗣業であり恩恵である。この大目的を達成するために、大きな基本は教会の建て上げである。
この建て上げは、具体的に、賜物を生かし、奉仕に携わるという事である。※目立たない奉仕もある。小さな賜物、大きな賜物、目立つもの、そうでないもの種々色々である。神の前にはみな平等に覚えられている。平等である。そしてそれらが強い絆で結ばれている。小さな一つの器官がだめでも、体全体に影響を及ぼす。個=全体。
だから、一人一人の参与は大切である。神様はこの教会にテモテを備えようとしておられる。どうか、第二のテモテ、第三のテモテ名なる兄弟姉妹はおられませんか。応えようではないでしょうか。
導入:私たちの人生、もっと言うなら信仰は、まるで波が岸に打ち寄せるように、試練と喜びの波が押し寄せては引いていく。本日は、この信仰の波が一体何を意味するのか共に考えたい。
背景:教会の問題について考えてきた。テキストの様な大きな問題がいつもあるものではないが、しかし、小さくてよく起きるものがある。“パン種”である。しかし、小さそうに見えるが、時に大きな火種になることがある。お互い気を付けたい。“蒔いた種は刈り取らなくてはならない”
本文:V30,31;「喜んだ」⇒いつも、事ある毎に心配、不安がよぎってくる時がある。しかし、このようなことが、文字通り解決されると“胸のつかえがとれた”と言って喜ぶ。まさに異邦人クリスチャンにとってその様な時となった。
V32,33;「帰って行った」⇒喜びの伝えを持ってきた使者二人も、現地で安心と平安が伴った喜びに満たされたのを見て、自分達の使命に心からの充足感を持って帰路についた。
V35:「教え…宣ベ伝えた」⇒福音の中心“救いの教理”は単純である。イエスキリストの罪の身代わりを信じること。これに何を付加えてもいけない。ただ、クリスチャンの使命、神の国の拡大発展については、律法《聖》を信仰によって成就するように努めることである。この務める事と救いが、ごちゃ混ぜにされてはいけない。
適用:信仰生活というものは、試練の波と、喜びの波が交互に押し寄せてくる。しかし、この現実の姿こそ、神のキャンパスに描かれた信仰者の栄光の姿そのものである。例;冬季オリンピック、ギリシャ語。
確かに自分たちの人生、(もっと信仰的に言えば)信仰生活は、試練・不安といった黒い部分があり。反対に喜びといった色とりどりの部分がある。これらが、濃淡・色彩鮮やかに、時には、影の部分を黒でコントラストして素晴らしい絵を、神のキャンパスに描き上げているのではないだろうか。この試練と喜びに綾取られた姿こそ、それ自身が神の栄光そのものである。
兄弟姉妹、あなたには今どのような試練を経験されているでしょうか。顔形が違うように、一人として同じパターンはありません。人と比較しなくてもいいです。試練が大きければ大きいほど、その栄光のキャンパスの絵は、素晴らしいと言わざるを得ないでしょう。
導入:聖書は、出来事をありのまま描写している。奇麗に着飾ることをしない。本日は、教会における問題、そしてその解決について学ぶ。
背景:ヤコブ議長の配慮は、フォーカスの当たっていないところ、その側の心の軋轢を見落とさなかった。
本文:V22;「使徒…長老…全教会」⇒これは現代で言えば教団レベルの組織を想像できる。これから送付する議決文書の権威が伺える。という事は、重い決定権を持つ機関が存在していることを明らかにしている。「一緒に」⇒この言葉が26節にも出てくる。いわゆる、使者と共にキリスト教会で信用あるパウロ、バルナバが一緒についてゆくという事である。教会が混乱しているとき、外部から、しかも最も信用置ける教師を送ることはたいへん有益である。なぜなら疑心暗鬼の兄弟姉妹がそこには居る。
V23;「あいさつ」⇒当時の正式な手紙の書きだし。「アンティオキア、キリキヤ、シリヤ」⇒8章で逃れた人達の教会。
V24:「指示していないのに」⇒教会は、自由という空気がある。それは良い事である。しかし、その故に混乱もよく起きる。秩序として、先ほどの権威ある機関の共通認識は大変重要である。(もちろん指導者の権威のはき違えは論外。)例;教会はいろいろな問題が起きる。
V25;「一緒」⇒前述した通り。「全会一致」⇒この文書、また使者の伝言は、権威あるものであることを繰り返し伝える。
V26,27;「いのちを献げている」⇒信頼のおける人物とは、経験的に教えられることがある。それは、試練を潜り抜けてきた信仰者。火で精錬され、悪が聖められているからではないだろうか。
V28,29;「聖霊」⇒聖い、真実な聖霊は、私たちの必要を、直感的に教えて下さる。信仰者に与えられる賜物である。パウロが、1節の“割礼派”の問題の大きさを見抜いたのは正にこの聖霊の働きである。29節は、決議文の追記事項である。
適用:教会は様々な問題があるのは事実である。今日の様な問題は特別であるが、もっと起きやすい問題がある。“パン種”である。噂が拡散していくことである。教会の命の働きに水を差してくる。例としては、①指導者が悪い時②信徒の側に問題がある時
いずれにしても、私たちの教会は、教団に属している。①のケースも、②のケースも、人に頼らず神に信頼し解決する原則はある。しかし、一方で、外部の信頼置ける機関に相談することを奨める。
導入:アメリカ大統領選挙は、国家の分断という事を露呈した。本日は、初代教会に起きた慣習の違いによる分断の危機をどのように乗り越えたか学ぶ。
背景:エルサレム会議に先立ち、ペテロは、“聖霊のバプテスマ”が異邦人にも降ったことを証明した。この事により割礼派も、救いの事実について納得した。
本文:V12;「しるしと不思議」⇒初代教会は、リバイバルが継続していた環境があった。
V13;「ヤコブ」⇒イエス様の弟。彼の信仰は、行いを強調する。もちろん、律法主義ではなく.
V14-18:「残りのもの…異邦人が主を求める」⇒マラキ9:11,12の引用。主に選ばれた異邦人も、終末に救われる。
V19、20;「偶像…淫ら…絞め殺した…血とを避ける」⇒異邦人クリスチャンに、注意を与えた内容である。この異邦人の習慣は、ユダヤ人クリスチャンにとって、受け入れがたい習慣である。②淫らな(不品行)は、レビ18:1―8に禁止規定として載っている。これも、異邦人の倫理規定の甘さで、習慣的によく見られた。③絞め殺したもの(動物の肉)と血については、血を食する事になるため、レビ3:17の禁止規定である。これも、異邦人の慣習としてよくあったようである。☞現実社会の中でよくある異邦人社会の習慣でユダヤ人にとって受け入れがたい(体が拒絶する)内容である。
V21;「律法…町ごと」⇒この箇所は、当時のシナゴグーが、どのような働きをしていたか垣間見える。この会堂は、ユダヤ教信者のためのものである。そこで律法と共に、この異邦人のための注意書きが読まれていたことになる。だから、ユダヤ教信徒、ユダヤ人クリスチャン、そして信仰を持った異邦人クリスチャンが集っていた事になる。アンティオキア教会は、異邦人主体で立てられていたようであるが、一般的には異邦人も含めクリスチャン達は、このシナゴグーで信仰を育んでいたと思わざるを得ない。おおらか。
適用:この箇所(文脈)は、今まで、異邦人クリスチャンの擁護の様に思っていたが、逆にユダヤ人クリスチャンの擁護である。二つに分裂しかけた、キリスト教会を、ヤコブ議長は纏めたわけであるが、その心は、一般的な判断でなく、微に入り細に居る人の心の機微を見落とすことない判断であった。
例;日本人の救いのため、福音派(信条を一にする者の集まり)は、一つになる。(ワクチン接種の話)。
導入:信仰は、未来への保証。(へブル11:1)この事は、常識世界に生きるものにはピンとこない。私たちは、信仰を持っていても、これを見失う時がある。個人的には日々に、また、共同体で時々確認を行う必要がある。
背景:ユダヤ教の慣習「割礼」を、エルサレム教会のキリスト者が受け入れた。「割礼」は、旧約聖書に出てくるが、ユダヤ教慣習の中では、信仰の伴わない形ばかりの“救い”に変貌する。
本文:V6;「協議…集まる」⇒エルサレム会議が始まる。
V7;「私を選び…信じるように」⇒10章のコルネリオ家族たちの救いの件である。
V8:「私たちに与えられた」⇒ここの与えられたのは“聖霊”。 2章38節は、ユダヤ人が最初に救われたことを語っている。☞聖霊はいろいろな意味があるが、救いと関連して語られれば“聖霊のバプテスマ”
「異邦人にも聖霊を」⇒10章44節が異邦人の救われた最初の記述。ペテロの説教の最後43節(罪の赦しが受けられる)、この後、聖霊のバプテスマである。☞一連の流れから見えることは、聖霊のバプテスマが救いと大きく関係をしていることがわかる。
V9;「差別もつけず」⇒聖霊のバプテスマを受けることが救われていることの条件と見える。そして、割礼を受けさせると言っていた者たちも黙らせることになった。「きよめてくださった」⇒神の句には聖さにあり。
V10;「負いきれなかったくびき」⇒ここは割礼だけでなく、“先祖伝来の教え”を守ることに救いを見出す律法主義も含んで強調している。
V11:「恵みによって」⇒キリスト教の救いは、天からの恵みである。最後に確認している。
適用:救いと、聖霊のバプテスマが大きな関係を持っていることがわかる。そして、ユダヤ人クリスチャン達に共通認識がある。驚きである。聖霊のバプテスマは①しるしと不思議が伴うことがある。力という表現もある。また聖霊臨在という言い方もある。②天国が地上に突入した状態である。③この一番の意味は信仰の確信である。だから救いと大きな関係がある。④ローマ8章9,10,11節の聖霊が内住し生きているは、まさしく聖霊臨在。
チョーヨンギ師は、「祈る時イメージを描いて祈れ」といわれる。イメージが、臨在をもって見えるとき、未来の保証が生まれたといわれる。祈りの中で、日々に体験しましょう。
導入:本日は、ユダヤ教の慣習とキリスト教の遭遇について学ぶ。
背景:「神の国に入るには多くの苦しみを経なければならない。」しかし、恵が伴ってくるのも事実。
本文:V1;「ユダヤから下ってきて…割礼…」⇒この箇所はガラテヤ2章に詳しく出てくる。それを見ると、エルサレムの指導者達(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)も、キリスト教信仰でも、ユダヤ教の慣習を重んじている様子がうかがえる。この実態は、律法主義の延長線上にある。
V2;「エルサレムに上る」⇒この問題は、今までうやむやにしてきた。今後の異邦人宣教に大きく影響を与える内容となる。だから、キリスト教界全体の問題である。
V3:「フェニキヤ、サマリヤ…すべての兄弟たち」⇒8章迫害で逃れたユダヤ人キリスト者たち。喜んでいる。喜んでいないのはエルサレム教会(本部)の者たち。
V4;「迎えられた」⇒エルサレム教会が、パウロ達の敵対者ではないことがわかる。話せばわかる人たちが多くを占めている。しかし、中に肉的頑固者もいる。☞それは組織の実態であり、弱さである。地上の教会の姿であろう。
V5;「割礼…律法…べきである」⇒くどい様に食い下がってくるものがいる。問題は根深いものがある。
適用:本日は、ユダヤ教の慣習が、キリスト教の信仰義認(核心部分)を覆す恐れがあった。本日の適用は、慣習が真実を覆す点で考える。
戦後民主主義(国民主権☞平等)が発展してきた。この民主的考えは聖書にも立脚し大変大切である。しかし、これが間違って解釈され、“皆で決める事”が暴走している。民主的政治体制でも、組織を運用するうえでは、正しい権威が求められる。これがなし崩しになっている。Ex.“モンスターペアレント”
コロナ対応で、それが受け彫りになった。
しかし、この戦後の慣習は、教会内にも影を落としていると感じている。主が立てた権威があるはずが、特に“合議制”の名のもとに、組織の権威を用いる場面でも“皆で決める”がまかり通っている。これがエスカレートすると、教会秩序の中に思わぬ力が本来の権威の座に座ってしまうことはないだろうか。今回、宣教区に要望を出した、“信徒会”の文言もその延長線上にある。主イエス・キリストのからだである教会が、正しく建て上げられるように祈り進んでいきたい。
導入:ある高校の文化祭の出来事。ある出店コーナー「人生は苦痛の連続」。徳川家康も同じような言葉を言った。本日は、信仰の試練について学ぶ。
背景:神概念は古今東西、聖書とは違った考え方が数多く見られる。人が神を理解することは、真理を理解する理性・良心によるところが大きい。しかし、この理性・良心はあるところまで導いてくれるが、どこまで行っても人間(肉)の側のものである。本当の真理を知るには、神のことば、聖書から教えられなければならない。
本文:V19;「ユダヤ人がやってきて」⇒今日の出来事は、リステラ(先回場所)である。「石打」宣教者パウロの試練である。特に大きな器(責任あるもの)は大きな試練に合う。普通でない。仮死状態。
V20;「立ち上がって町に」⇒半端でない経験もさることながら、仮死状態から蘇生した。強靭な体力は言うまでもないが、弟子たちの祈り、神のご配慮としか言いようがない。※大きな神の前に責任ある器は、常識では考えられない経験を神は課し、神の栄光の為に用いられる。☞試練にあっている人の傍らに立てる人になる。世界宣教の奥義を剥がす器。
V22:「神の国に入る・・・・多くの苦しみ」⇒一般の人も、冒頭のようなことを言う。ましてやキリスト者は、神の国を建て上げるためにも、主にある苦しみは通らなければならない。
人の苦しみは、①社会的立場②年齢③置かれた場所、環境によって、試練の大きさは違う。Ex.30代水道課の事☞今思うとよくできたと感じる。
この様な中で、普遍的な人間関係について考察。
V23;「長老たち」⇒この地に共同体が生まれた証であろう。宣教者にとって、教会が誕生することは、最高の喜びではないだろうか。苦しみは吹っ飛んでいく。
V26-28;「報告」⇒宣教報告である。異邦人の救い、また、不思議の伴う神の力が証されたであろう。パウロたちの苦しみに主がねぎらってくださった。
適用:牧師の証。30代水道課の“電話を取る”事件(道義的領域の事)の証。
この選択の後、自分の生き方が変わった。また、主の祝福が色々な形でやってきた。(聖会参加等) 私たちも、世間から負け犬の様に見られている事があるが、実際は正反対で、負け犬は、この道義的領域に土足で入ってくる者達である。祝福は、誠実に歩むものにある。
導入:神の国拡大、リバイバルの時。本日は、甲子園リバイバルミッションで起きたことを交えながらリバイバルの様相について学ぶ。
背景:アンテオキアでは、パウロの説教によって、異邦人が救われてきた。町中が沸き立った。(リバイバルと言ってよい)しかし、ユダヤ教の頑固者は、この時から、パウロ達に真っ向から迫害を仕掛けた。☞救済史から見ると、宣教の対象が、異邦人にフォーカスした。
本文:V1;「大勢の人が信じた」⇒福音が語られているのは、ユダヤ教と関係の深い所である。ユダヤ教は信仰とは程遠い救済観であること。この様な罪と悪の環境で、個人も影響を受けていることを心の底から認識した。☞3節「長く滞在し」
V2;「ユダヤ人…悪意を抱かせ」⇒聖霊が働くと、悪・サタンはまともに日の光を浴び、死に物狂いで反抗・妨害をしてくる。
V3:「長く滞在」⇒上記の通り、ユダヤ教の間違った教理も糾弾されてきた。4節「二派にわかれた」⇒甲子園ミッションの時、主催していた教会は、教団からは、“袂を分かたれた”。教会内部では、正に二派にわかれた。福音派の教会が、撤退していった。しかし、このミッションが失敗であったか。否、3回の聖会で、12万人の動員があった。※主催者は、自分たちが異端かどうか、世界でリバイバルが起きているアルゼンチンに行って指導を受けた。P.W.師、C.J師,V.L.W.師,C.A.師。彼らは一様にリバイバルが起きていると語る。一人の方は、“このミッションを始めたものがサタン呼ばわりされる”と言ったそうだ。「しるしと不思議」⇒常識世界には住まわれない天上に住むお方のみ業であることを神ご自身がお示しになる事である。“主は生きている”と告白する。EX.小屋の話。息子さんの異言の解き明かし。 一方サタンも、自分に手を出すと恐ろしいことが起きると、しるしと不思議を見せて、威嚇する。
V5-7;「難を避け」⇒アンティオケアと同じことが起きた。
適用:甲子園ミッションの事がいまだに悪く言われていた。(30年経とうとしている。)
日基の2030年問題は他人ごとではない。私たちも気をつけなくてはならない。一つに、聖霊の深い教理は、伏せられたままである。
福音派が力を得、日本の求霊に向かっていかなければならない。日本は、疲弊している。この責任は教会にあるのではなかろうか。
導入:本日は、制度の硬直・閉塞感からの脱出について、ユダヤ教の現実から学ぶ。
背景:パウロの説教は、イスラエルの罪の糾弾。それは罪悔い改めを促すメッセージ。今まで、ユダヤ教の説教では聞いたことのない、罪赦されたダイナミックで、実生活に即したものであり、生きて働く神を実感した。
本文:V42,43「話してくれるよう」⇒今まで聞いたことのない生きて働く神を実感した。リバイバルの様相。「改宗者…神の恵みにとどまるよう説得」⇒この改宗者は異邦人とは違う。神を恐れる人。イエスキリストを信じる信仰を継続するように奨めた。
V44;「町中の人々が」⇒今までユダヤ人に語られてきたが、リバイバルの爆発で、口コミから異邦人が、シナゴグーにやってきた。異様な光景かも知れない。
V45:「ねたみ…ののしった」⇒※上記の通り。(理由)選民思想(律法、割礼)☞ユダヤ教の救いは、異邦人のような罪びとに与えるわけにはいかない。パウロの求霊の姿勢は、どう見ても異邦人に向いている。それがわかった時、ひどい迫害が起きた。※世界宣教;パウロは、ユダヤ人の宣教から始めたが、このような形から異邦人に切り替わった時である。
V48-52:「貴婦人…扇動…追い出した」⇒ユダヤ教と関係の深い貴婦人達を扇動し、ギリシャ人の夫にこの妻たちが働きかけ、ギリシャ人の有力者達が追い出した。
適用:新しい時代の幕開けである。しかし、内容はあまりにもどす黒い。しかし、神の計画は、旧泰然としたユダヤ教の恐るべき閉塞状態の宗教的枠組(制度)みからの脱出ということができる。①旧態的制度が、集団的で、誤りを認めない、これからも続く。②真実を語り、新鮮なパイオニアに迫害を仕掛けてくる。③真実、新鮮なパイオニアに期待する人が多くいる。以上の様な内容を含んでいるとき、ここから脱出することが、時代を切り開くことになる。
子どもの世界について、マスコミが盛んに取り上げている。特に学校環境が管理を失っているところがある。(先生も苦しんではいるが) そのような中で、悪い仲間がいるときは、そこから脱出することが必要である。現代は、学校という環境から脱出することも時には必要かもしれない。教育については詳しくはわからないが、今新たな動きがあるのではないか。
何よりも、イエスキリストを信じる信仰にすべての解決があることを覚えていただきたい。
導入:2021年最後の礼拝。感謝がテーマ。「私は苦しみが感謝でした」この様な方もおられるかもしれない。本日は、感謝を表す前に前提があることを学びます。
背景:2節「20年になった」⇒いったい何が起きていたか。(地図から見てみる。)
本文:V1,2;「20年になった」⇒契約の箱の不気味さだけが人々に残った。この20年は、イスラエルの心が神から離れていることの証ではなかろうか。しかし、契約の民は違う。「主をしたい求めていた」⇒暗さが続き、世が閉塞状態になると、まさに、心を神に向けてきた。
V3,4;「主にのみ仕えた」⇒宗教改革である。サムエルの呼びかけに答えた。
V5,6;「罪あるものです」⇒民全体の悔い改め。
V7;「ミツパ…恐れた」⇒ペリシテ人は、いつもの様にイスラエルが、戦争に備えていると考えた。逆に、イスラエルは、いつもの様にペリシテ人が、襲ってくると考えた。
V8,9;「主に叫ぶのをやめないでください」⇒今までとイスラエルの対処が違う。まず神に求めた。「子羊…全焼のささげもの」⇒子羊(イエス様)をささげるとは、イエス様が、私たちのために身代わりの死を遂げられたことである。勿論イスラエルはここに信仰を働かせたのである。☞悔い改めと、イエス様への信仰を働かしたのである。
V10,11;「雷鳴…打ち負かされた」⇒イスラエルの“勝利”より神の勝利といったほうが良い。まずすべき事をするとき、神の不思議が起きる。弱小、脆弱が、変化するときである。
V12;「エベン・エゼル」⇒敗北した町の名前が、感謝の記念の塚になった。エベン(石)エゼル(助ける)
V13,14;「二度とイスラエルの領土に入ってこなかった」⇒完全な“勝利”。ペリシテにとって、歴史に残る敗北。神の裁きは完全に実行される。
適用:今日、感謝のテーマで見てきた。しかし、感謝の前にどうしても行うことがある。人生、個人の生活において、節目々々があるが、主の祭壇を築いて神に祈る時が必要。それは、信仰の原点(罪悔い改め、イエス様が身代わりになってくださったことを信じる。☞聖さを神から頂く事である。)この一年、自分自身の歩みはどうか。もし示されたら、悔い改めましょう。そして、身代わりのイエス様を通して罪赦していただきましょう。敗北の町(エベン・エゼル)が、記念(感謝)の石(エベン・エゼル)となりますように。
導入:世界で最初のクリスマス。羊飼いたちのクリスマスを学びます。
背景:当時の羊飼いの職業はどのような位置づけか。蔑まされていた。しかし、この様な人たちにまずイエス様は顕われて下さった。
本文:V1,2「アウグスト…キリニウス」⇒この二人の時、住民登録のおふれが出た。権威ある歴史書は、AD6年と教えている。結論から言うと、イエス様の誕生の年月日はわからない。「住民登録」⇒一般的には、住所地で登録するが、ユダヤは先祖の生まれた地でする。血統を重んじている。
V3,4;「ダビデの町」⇒身重のマリアを連れて、100K離れたベツレヘムに行くことは大変な旅である。
V5-7:「場所がない」⇒ベツレヘム“パンの家”。イエス様は生けるパン。ここはイエス様が本来いる場所。そこに居場所がない。「飼い葉おけ」⇒王の王、主の主なるお方が、汚い、みすぼらしい所でお生まれになられた。
V8-10:「主の栄光」⇒羊飼いたちに、恐ろしいような光が満ちた。「この民全体に与えられる」⇒羊飼いに顕われたメッセージは、“民全体”☞福音の使者。
V11,12:「主キリスト」⇒キリストはメシヤ(救い主)。旧約時代、主(ヤーウェー)とメシヤは結び付かなかった。ルカは、それを結びつけた。
V13,14:「天の軍勢…賛美」⇒ここは有名な「グロ-リア、インエクセルシス、デオ」である。しかし、主の祈り“御名を崇めさせ給え、御国を来らせたまえ”と同じ。
V15-18:「驚いた」⇒当時はメシヤ待望時代。人々は待ちに待った。羊飼いの救い主誕生の知らせと、赤ちゃん、布、飼い葉おけの証拠で、そこにいる人々は、メシヤ誕生を確信した。これが最初のクリス(キリスト)マス(礼拝)。
V19,20:「賛美」⇒羊飼いは、蔑みから賛美するものに変えられた。福音を喜びの中で伝える人たち。「思い巡らす」⇒マリアは、この出来事を瞑想し、崇めつつ過ごす中にこのルカの福音書の背景が出来たといわれる。
適用:イエス様の誕生は決してきれいな環境でない、危険と隣り合わせ、また汚い。そして人としては、全く無力な姿である。一方最初にメシヤ誕生の使信を受け取った羊飼いも社会から蔑まれるような存在。いわゆる、イエス様は、このような弱者にまず救いを与えるために来られた。EX,牧師の職場最後の経験
地に平和が来ますように。
導入:イエス様誕生に際し、色々の人が関与した。新約に入ると、羊飼い、シメオンとアンナ、東方の博士。そして、イエス様のお父さんとお母さんである。
背景:本日の出来事の前に、お母さんマリアが、み使いから“懐妊”することを知らされていた。その事実は驚きであるとともに夫には、知らされていなかった。(無用な心配を避けるためか)
本文:V18「婚約」⇒当時の婚約は、法的には結婚であった。ただし、夫婦関係は厳しく戒められていた。※婚約解消は、離婚手続きに移行することになる。「聖霊によって」⇒一般的には考えられないことである。
V19;「さらし者にしたくない」⇒夫ヨセフは相当悩んだ。どのように対処し、将来に対して心の整理をしたか。
A社会的対処①これから構築される家族に対して「姦淫の母、不道徳な父」あらぬ噂を広められる。☞離縁して、マリアを遠く離れて生きるようにする。②マリアに対して、今までの足跡、事実から照らしてその様な事をすることはない女性という認識。
Bヨセフの心の対処☞信仰の事であるが、その方向性と原動力は、マリア、ヨセフの正しい生き方が基本となり、彼の良心と理性が方向性を指し示し、それに信仰が覆い被って、信仰の方向性と原動力が生まれている。「マリアの潔癖性を信じ続ける」
V20-23:「夢」⇒神の啓示としては、ランクは低いと言われている。※聖霊臨在の伴うしるしと不思議が高い。「迎えなさい」⇒やはり聖霊による懐妊が告げられた。人は、未来の確信は、神の啓示によって与えられる。「イエス」⇒㋬は、ヨシュア。主は救い(㋬ヨシア)音韻が似ている。22節の“イエス様は「インマヌエル」”イザヤ7;14の引用。確かに、聖霊による懐妊を確信した。
V24-25:「妻を迎え入れた」⇒のち,
後ろ指さされるかもしれない。しかし、その事実はない。社会悪に立ち向かおうとしている。
適用:ヨセフは正しい人とある。葛藤の中にあった。しかしその信仰を見ると、ⅰマリアの足跡から、ぶれながらも、その潔癖性を信じ続けた。確かに、理性、良心が一つの方向性を示している。そして、そこに信仰が被さって、原動力となっている。そして、神の啓示で確信に至っている。 例:一般社会の例;照ノ富士
人生、想定外の思わぬことが生まれる。しかし、過去の実績、足跡から決して今のままで終わらないと示されたら、祈り続ける事である。
導入:旧約聖書の預言者でイザヤは最大の預言者と言われる。
このイザヤが、イエス様の生まれる700年前にメシヤ預言をした。
背景:イザヤに2人の子どもと、これから生まれる男の子がある。これらの名前は当時の国際的背景(国家存亡の危機)の中でつけられた。しかし、そのような中で、救い主につけた“インマヌエル”は、驚くべき啓示と言って良い。
本文:V1「ナフタリ…ヨルダン」⇒アッシリヤが侵略した地域。「海沿い…」⇒アッシリヤ直轄地域。「栄誉」⇒イエス様のガリラヤ宣教の地域。暗黒の地が、一転、光の希望の地域になる。
V2;「見る…輝く」⇒この単語の時制は、未来完了☞未来なのに完了している。預言者の確信
V3:「刈り入れ時」「分捕りものを分ける」⇒人間社会の中で日常的に、神が喜びを与える最大は、仕事の成功、結果が現れる時。
V4:「ミディアン」⇒ギデオンがミディアン人連合軍を打ち破った様子。これは主の戦い、無血“勝利”であった。
V5;「焼かれ…火の餌食」⇒戦争の戦いの道具によらない完全な平和の勝利。
V6:「みどり子・・・・主権」⇒※接頭語“キー”から始まる。前述の理由は…。
赤ちゃんとして生まれてくる方に統治が与えられる。☞無力さ(民の弱さに寄り添う)の中ではあるが、一方で、世界の現実的、具体的統治者でもある。「不思議な助言者」⇒イエス様の啓示の有り様。生まれ。現在も統治している姿は不思議。また、助言を必要としないお方。「力ある神」⇒力は、全知全能者。いわば神の表現。「永遠の父」⇒このお方は、地上の後の天国にまで関係性を持つ。父は、保護者。「平和の君」シャロームは、具体的な地上の十全的恵み。安心安全、健康。
V7:「増し加わり」⇒※前節を強調して繰り返している。「ダビデの王座に就いて」⇒ダビデが成し遂げた王国以上、いや永遠性まで含んだ“べらぼうな規模”の王国を啓示された。「さばきと正義」⇒イエス様の統治は、悪に対して、敢然と向かっていかれる。人にはなかなかできない部分を成し遂げられる。「熱心」⇒嫉むという意味がある。メシヤの民を愛する気持ちは妬むほどである。
適用:今は、待降節。イエスキリスト誕生の700年前にイザヤに啓示されたその背景を覚えつつ、クリスマスを待ち望みましょう。イエス様は、今も、世界の統治者、平和の君である。
導入:牧師が、罪の恐ろしさを感じたのは、小学校入る前の時、パン屋さんの事件。中学一年生の時、石投げ事件。罪は、良心の呵責が伴う。本日は、福音の中に罪の赦し(救い)があることを学ぶ。
背景:宣教は、現場に行ってみないと計画が立てられない側面がある。ゆえに、派遣した宣教師は、ミッションに対する“委任”がされている。※教会政治の中で、“指導”と語っていたのは“指示”の誤りでした。訂正させていただきます。
本文:※今回の説教は、長文で、文脈も展開している。主要単語をピックアップして語る。
V16;「手振り」⇒ギリシャ雄弁家のスタイル。
V17-22:イスラエルの歴史が語られている。その頂点として、ダビデ王国がある。人々はダビデ王からメシヤ誕生を言い伝えた。しかし、これがまさしくメシヤ預言となった。(人々は、イエス・キリストをダビデ王の再来と考えた。)
V23-25;「その方の足の」⇒主役の登場にはわき役がいつもいる。
V26-29:「理解せず…罪に定め…預言成就」⇒イエスキリストの死。聖書の民がこともあろうに。預言(聖書)を注視するならば、わかるはずであった。しかし、これも神のご計画。
V30-33:「よみがえらせ」⇒救い主イエスは、死で終わらない。復活した。☞神に反抗的なユダヤ人でも、復活は神であると認めている。
V34-37:「ダビデは…死んで」「朽ちて滅びることが」⇒ユダヤ人は、イエス様をダビデの再来と思っていた。神の国とダビデ王国の連続性はあっても、神と人との違いは明確である。
V38-39:「罪の赦し」「義認」⇒はっきりと、このイエスキリストに救いがあると明言。
V40,41「一つの事…信じがたい」⇒神の裁きが下る。説教はここで終わっている。厳しい。裁きは、悔い改めを促し、イエスキリストを信じる方向に行っているはずである。
適用:裁きの説教で終わっている厳しい説教である。しかし、福音には罪の赦しがあると教えている。例;滝元明先生の救いの指導
救いの象徴的で見える形は、良心の呵責からの解放である。神は、形を見せて、鈍い私たちによく理解させてくださる。※聖書の罪は、良心の呵責が伴わない罪を教え、それが、信仰的に最も重いと語る。
導入:教会は気心が知れた仲間という表現もできるかと思うが、しかし、それ故に、思っていることをそのまま出すということは、逆に控えなければならない。一方、何でも分かっているようでいて、盲点のようなこともある。本日は教会の活動における諸事情について学ぶ。
背景:サタンについて学んだ。サタンが姿を現すとき、また姿を隠すときという視点で見てきた。適用では、地域社会、組織を支配しているサタンの存在は、サタンが住む霊的な場所と深い関係がある面を見てきた。
本文:V13;「パウロ一行」⇒この時点ではバルナバがリーダーとして取り仕切っていた。しかし、使徒の働き全体で見るとき、パウロの働きが圧倒して大きい。「ベルゲ」⇒小アジアの方に、宣教拡大して赴くことになった。「ヨハネ…一行…離れ」⇒いろいろ憶測されている。3点で言われている。ⅰマルコ・ヨハネは宣教に恐れを抱いた。ⅱバルナバとマルコは親戚関係、それがパウロの方に指導権が移っていくことに妬みを感じた。ⅲ元々、キプロス、バルナバ郷里伝道が計画で、マルコはその計画を尊重した。
(ⅰについて)
マルコの信仰の量りと関係し、励ますことはできても、結局信仰は本人の自主性に委ねるなければならない。
(ⅱについて)
妬みは、相手が間違っていないのを悪く思うことである。これは、本人が気が付いて、悔い改めなければ解決できない。
(ⅲについて)
考えようによっては、マルコは、教会の方針に忠実に従ったと考えることもできる。しかし、宣教というのは、現場に行ってみないと宣教地はどこにするかとか、見えてこないところがある。また、主日礼拝もされていくとなると、教会そのものであると考えることもできる。地方教会は、自治が最大守られている。たとえ教団といえども、介入できない部分がある。宣教師に委ねなければならない。
☞委任と補助執行について
適用:教会活動は諸事情が確かにある。愛と寛容がもとめられる。また、共同体の秩序を守ることに心を配る必要がある。
現代の福音派の教会で見られる混乱に、正しい権威を認めないといった空気がよくある。指導者の欠点があれば指導者はすぐ悔い改めなければならない。しかし、必要以上に過大要求を突き付けて、困らせるならば問題である。指導者の権威を他のものが、事実上するようであれば、指導者は、祈りと共に、適切な処遇を断行しなければならない。
導入:牧師が少年のころ見た映画の一コマ。聖書信仰からほど遠い話だが、共通点はある。サタンは、イエスの御名に出会うと退散する。本日はサタンついて学ぶ。
背景:世界宣教に乗り出していった。宣教は至上命令だが、それだけの祝福を神は用意された。ⅰ非日常の出会いⅱ救われる人が起きる喜び
本文:V4,5;「キプロス」⇒バルナバの生まれ故郷。郷里伝道から始まる。「諸会堂」⇒ユダヤ人たちの礼拝所を活用。
V6:「魔術師」⇒しるしと不思議を行って、医療行為を職業としていた。「偽預言者」⇒神の名を語っているが、中身はサタンそのもの。
☞今日の場面は、サタンがまともに顔を出している。※牧師の村上での経験。
V7:「招き、神のことばを聞きたい」⇒魔術師は、総督の側近としている。しかし、総督は違った。彼らを招いた。(同じ霊的世界を扱う共通項を見出した。)
V8;「総督…遠ざけよう」⇒悪賢く人のプライドを傷つけるようにした.
V9-11;「日の光を見ることができなくなる」⇒パウロの叱責の仕方は、普通ではない。一般的な人間関係の道義的領域は、クリスチャンは黙っているであろう。ここはどうだ。はっきりモノ申している。☞サタンが直接的に顔を出している。例、マルコ1:24,25
適用:「主が立ち上がられた日」から、聖霊が働くと、サタンも同じように妨害をしてくる。ミッションのスタッフたちは、現実的にその実態を経験した。
彼らの祈りの中に「サタンを追い出す」祈りが多くされる。☞姿を現す内は、追撃し安い。 しかし、人間の関係(組織)の中に入ると、サタンは影を隠してしまい、対処は難しくなる。そして、この影を隠したサタンが、長い歴史の中で地域、組織を支配し大きく膨れ上がり、人間関係の中に住み込んでいる現実を実体的に知ったのか、と思わされた。
村上においても、殻は固い。見えないサタンが、人々を支配しているのだろう。神社、仏閣、祭りは霊的領域のため、サタンを発見しやすい。その領域のために祈ることは良いのかもしれない。(教会は、その霊的領域の良いものをすべて所有している。)
(音声をお聞きになられる方は、下記URLをコピーし添付してください。)
https://drive.google.com/file/d/12Zu1-tvKbxak360T1DaOfl-f5dOvixJ5/view?usp=sharing
導入:クリスマス、東方の博士のお話をした。非日常と、日常の違い。特に旅の中で非日常の良い部分が醸し出される。(社会のしがらみに惑わされない将来に対する自由性、希望)
神様は人間のこの特性を利用して世界宣教へと人を押し出してくださった。勿論、神の国の拡大発展(人の救い)は言うまでもない。本日は、世界宣教について学ぶ。
背景:11章、アンティオキア教会の発展ぶり、13章に入ってアンティオキア教会の充実ぶりが出てくる。
本文:V1;「バルナバ…ニゲル…サウロなどの預言者や教師」⇒アンティオキア教会の充実ぶりが描かれている。教会は一つの目標に到達して足踏みは許されない。全地球的神の国拡大が残されている。※能力・体力に合った救霊の働き。例:韓国のある教会
V2:「礼拝し…」⇒世界宣教の働きは、教会を通じて実行される。元々私たちの信仰は、共同体の中に組み込まれて初めて、信仰生活と呼べる。当然に、教会から“派遣”はされる。(人、費用、計画→責任ある仕事。)「聖霊が」⇒人選は、世の価値観ではいけない。神の言われる選別が必要。例:ヤクルト
V3:「二人の上に手を置いて」⇒按手である。一般的には職務の任命行為。しかし、送り出す派遣地は一体何が起きるかわからない。確かに宣教地は、非日常と、救霊の喜びがある。しかし、ヘロデのような男もいる。神に委ねなければ送り出すことは難しい。
例:韓国宣教師(既にある教会、信仰者をリバイバルに導く☞立派な宣教といえる。)
適用:教会の充実を言えば、村上はまだまだである。確かに素晴らしい礼拝堂が与えられた。しかし、充実とはこれからである。最近、牧師夫婦は、100名の人が集う教会になるように、と祈っている。そして、教会が、一つの充実としてのゴールが与えられたとしても、自分達の体力に合った、世界宣教はいつも残っている。
宣教は神様が大いなる恵みを与えておられる。非日常の恵み、最大は、人の救い(信仰復興も含め)。
導入:子どもの不登校が増えている報道がされた。人間の罪は、子どもといえどもほっておくことはできない。罪は、神に取り扱われる。本日は、罪からくる裁きについて学ぶ。
背景:ヘロデ・アグリッパは、名誉心なら人の命を抹殺することすら辞さない。ペテロがこの刃にかかった。教会の必死の祈りで救出劇が起きた。
本文:V20;「ツロとシドン」⇒地中海沿いのフェニキアの都市。ユダヤから食料を輸入していた。アグリッパを怒らせると死活問題に発展する。
V21-23:「定められた日」⇒ローマの祝賀行事の日、場所はカイザリヤ。「ヘロデ」⇒銀の糸が織り込まれた服を着て、演説を始めた。ツロ、シドンの者たちが、ブラストの勧め通り、「神の声だ」と、叫び始めた。これは、人の傲慢を促す言葉で、アグリッパは即座に否定しなければならない。しかしこれを容認した。小さな虫にかまれ命を落としてしまった。(裁き)
(裁きとは)
① 創世記18:25では、神は公正な方。悪は裁かれる。② 裁きは、人(王、祭司、預言者)に委任された。③ 宇宙的な破滅の概念に代わった。新約はそれを継承。しかし、マルコ1:17「神の国は近づいた。」天国が突入した。それは“裁き”もはじまった、と言える。(その表れは、リバイバルと同じく限定的、地域的。)
(裁きの適用の難しさ)
イエス様は、マタイ5:44「敵のために祈れ」一方、悪は、その背後に罪があり、神の国を破壊する。裁きは、信仰生活で適用しなければならない。(詩篇に多くの紙面を費やしている。)概念的には相反するこのことを信仰生活に適用することは難しい。
(裁きを安易に取り扱うことは個人の信仰生活にとって大変危険)
これも大変重要な信仰の視点であるが、悪を、善として受け入れるとき、霊性の破壊が起きる。
適用:裁きについて、教会の雰囲気が悪くなるから、語らない傾向は多くで見られる。聖書は、対立概念がよく出てくる。この説明をしないと、悪を、悪として認識できなくなり、霊性の破壊をまねく。
的確な裁き(もっと軽い、神の取り扱いも含め)を信仰の中で、適用したい。
導入:天竜キリスト福音教会の開拓者メリー先生の証。宣教とは、内に外に戦いが多い。しかし、すべてご存じの神は、神に仕えるものに勝利を約束してくださる。
背景:11章が終わった。アンティオキア教会の発展が素晴らしい。一方13章は、アンティオキア教会から、第1次伝道旅行が始まる。歴史家ルカは、この当時エルサレムでは何が起きていたか。12弟子はどのようになったか。明らかにしようとした。
本文:V1、2;「ヤコブを剣で殺した」⇒アグリッパは、ローマの背景を受け王に上り詰めた。もともと、ヘロデ家の血統は、純粋でない。アグリッパは民衆の歓心を買うことに躍起であった。一方、エルサレム教会は、人が減り外国の方に力が注がれていた。☞ユダヤ人は面白くない。アグリッパは、指導者として狡猾である。民衆が、自分に関心を持つ好機ととらえた
V3、4:「ペテロを捕らえにかかった」⇒12弟子のリーダーを抹殺すれば、それも人の集まる祭りの時期ならば、王の株も上がると目論んだ。さらに、ペテロは、極悪な犯罪人として扱った。(監視は4人一組、4組。)
V6-9:「ペテロの脇腹を突いて」⇒神は絶体絶命の時、救いの手を表してくださる。
V10,11;「第1…第2…門がひとりでに開いた」⇒まさに、中国家の指導者ユン兄弟と同じ。
V12-14;「喜びのあまり」⇒祈っていたことが現実に起きると、人は信じられない。皮肉。
V15、16;「気が変になっている」⇒神様のされることは、常識を超える驚くべき方法で事を行う。
V17,18「ほかの場所へ行った」⇒追手がすぐに来るため、自分一人が犠牲になる訳でない。すぐにほかの場所(ローマ)へ移動。
V18,19:「処刑」⇒番兵は大変である。犯罪者を逃がしてしまうと、内通者がいると疑われ、処刑の憂き目を見る。大変である。
適用:中国の証を、以前読んだことがあった。同じような証が多く出てくる。
例;①アフガニスタン、タリバン下の教会 ②中国有力者の話 ③市役所当時の話。
特に宣教における危機の時、神はいつも守りの手を伸ばしてくださる。
(音声をお聞きになられる方は、下記URLをコピーし添付してください。)
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導入:先週、完成感謝礼拝をお捧げしたが、教会としても、礼拝堂が完成したこの意義について考えたい。
背景:詩篇24篇をテキストに選んだ。この背景は、エルサレムの神殿に契約の箱が運び込まれる時の状況を歌ったものである。※契約の箱は、聖霊臨在の象徴である。
本文:V1,2;「主のもの」⇒地上の全ての被造物は神によって造られている。自然界を含め、世界の支配者「海に地の基」⇒世界の土台は水が基となっている。
V3:「登り…立てる」⇒主の臨在に触れるのはどのような資質か。
V4:「手がきよく…心の澄んだ・・・・たましい…むなしい…偽り」⇒日常生活の誠実・真実。それを反映させる心も、真実。またそれを操っている魂は、自己コントールされている。
V5,6;「祝福」⇒聖霊臨在の喜び「義」⇒恵、祝福
V7;「門…上げよ」⇒もっと賛美を捧げよ。
V8;「栄光の王とはだれか」⇒門の内より問いがある。「強く力…戦いに力」⇒(返答が外からされる。)私たちの神は、愛には敵をも愛しなさいと言われるが、一方、悪に対しては、神の国の聖さのゆえに受け入れないお方でもある。
V10;「栄光の王」⇒栄光は神の顕現・臨在。(出エジプト40:34)一方“善”“恵”“あわれみ”を表す。(出エジプト33:18,19)また、威光、威厳の様に権威、支配を表す。(詩篇113:4)イエス様は、父なる神の栄光の表れと言われる。(ヨハネ1:14)
本日は臨在と解釈できる。そして、その臨在に触れる喜びにフォーカスがあたっている。
適用:教会は、特に聖霊が臨在するところである。今までの礼拝堂でも起きていた。しかし、この記念の時、新しく礼拝堂が建ち、聖霊様がこの中に入って、臨在を表してくださると記憶に止めたい。(記念とはこの事である。)村上の方々が、この礼拝堂に入った途端、聖霊の圧力に圧倒されるようなことが起きる事を願いたい。例:神学校の先生、ジャック・ヘイフォード
また、賛美の中に共同体的に臨在が溢れることが言われている。求めましょう。
(音声をお聞きになられる方は、下記URLをコピーし添付してください。)
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2021年10月10日 礼拝説教
聖書箇所 詩篇121篇
説教題 「詩篇121篇」 近 伸之師
プロフィール (豊栄キリスト教会ホームページより)
近 伸之 (ちか・のぶゆき)
1971(昭和46)年、新潟県中条町(現胎内市)に生まれる。
中学2年生の時に、骨肉腫で左足を切断。
高校3年生の時に、イエス・キリストを救い主と信じ、受洗。
敬和学園大学人文学部を卒業後、新潟市役所に勤務。
高齢者福祉を3年、水産行政に1年間携わった後、牧師になるために退職。
東京基督神学校(現TCU大学院神学科)を卒業後、
2002年より豊栄キリスト教会主任牧師として現在に至る。
現在、学校法人 敬和学園・理事、評議員。同大学同窓会会長(2011.4月~)
日本同盟福音教団・退職金委員会委員長(2016.4月~)
新潟福音放送協力会・会計委員(2019.4月~)
TCU(東京基督教大学)新潟地区支援会・会計委員(2012.4月~)など。
導入:もし礼拝中に交通事故が起き、助けを求めている人がいたら、礼拝中であってもどうするか。もちろん瀕死の人を助ける。本日は、キリスト者の社会的責任について学ぶ。
背景:異邦人教会アンティオキア教会は、歴史の経緯を見ると、”摂理”という言葉がふさわしい。
本文:V27;「そのころ」⇒アンティオキア教会と、エルサレム教会の信仰告白が同一あることを確認したころ。「預言者」⇒Ⅰコリント12:10には、賜物としての“預言”が書かれている。エペソ4:11には職制として“預言者”がでてくる。賜物⇒職制
V28:「大飢饉…預言」⇒危機の予知が、聖書の中には出てくる。「クラウディウス帝」⇒AD41~54の統治。(第一次伝道旅行AD47~48、イエス様の十字架AD30頃)これから見ると、イエス様の十字架から、15年超経ている。(アンティオキア教会が生まれた頃)
V29,30:「力に応じて」⇒献金の心。☞Ⅱコリント9:6,7
適用:教会が社会的活動と没交渉ということはあり得ない。
1974年7月スイスローザンヌで福音派の将来を方向付ける「ローザンヌ世界伝道国際会議」(ローザンヌ会議)が開かれた。イギリスの福音派のリーダー、ジョン・ストットが“誓約”を起草委員長としてまとめた。この誓約には、フォーカスが当たっている。「伝道」を「伝道と社会的責任」と定義しなおした。教会はそれまで、教会の中から外に目が向けられない傾向があった。しかし、社会との関わり中で、全体的に伝道がされていく必要があるとした。キリスト者の社会的責任は、社会活動とは違う。特に、世界には、民族・肌の色によって抑圧、暴力を受けている人達がいる。ここにフォーカスが当たっている。また、一つの教会では出来かねる。世界の教会(聖書信仰に立った)が、全体的に一つとなって参与する必要がある。
世界は、多くの地域、国で抑圧が起きている。今日、共産主義下の少数民族、アフガニスタンのタリバン等、私たち教会クリスチャンの出来ることは限られているかもしれないが、祈ることはできる。世界のクリスチャンの心を合わせ祈ろうではないか。早く神の国が来ますようにと。
2021年9月26日 礼拝説教
聖書箇所 1ペテロ2章1―5節
説教題 「信仰成長の鍵」 朴・チャンス師
説教者プロフィール
朴・昌洙師(パク・チャンス)1969年韓国生まれ。
クイーンズカレッジ・バーミングハム大学(イギリス)、実践神学専攻(Postgraduate Dip.)
ソウル神学大学・大学院(B.A. M.Div. ThM.)
国際イバンゼルリズム・エクスプロージョン(シニアトレーナー)
現、新潟聖書学院専任教師、基督教大韓聖潔教会 馬山上南教会 協同牧師
職 歴
2014. 4. - 新潟聖書学院 専任教師(担当課目:キリスト教ディサイプルシップセミナー・宣教学・神学書講読・実践神学・牧会カウンセリング・英語など)
2009. 6. 12. – 2013. 12. 26
基督教大韓聖潔教 馬山上南教会の派遣で、宣教ベースのオープンバイブル教団 大阪キリスト栄光教会で協力宣教師
2010. 08 世界聖潔教会連盟 第三回アジア青年大会東京大会 主講師
2009. 2 – 現在 基督教大韓聖潔教 馬山上南教会、協同牧師
2008. 08 世界聖潔教会連盟 第二回アジア青年大会フィリピン・マニラ大会 主講師
導入:摂理という言葉がある。神のされることは全て良き事。それは一見悪い事の様に思える事もである。本日は、異邦人教会が設立された背景を学ぶ。それはまさしく摂理という言葉にふさわしい。
背景:エルサレム教会の割礼を受けている兄弟たちが、ペテロの報告を聞いた。異邦人の救いより、異邦人と交わったことを非難した。それを覆したのは、しるし、不思議の伴う証しであった。これを非難することは、神に敵対する事である。
本文:V19;「ユダヤ人以外には・・・・語らなかった」⇒ステパノが殉教して、エルサレムでクリスチャンに対して大迫害が起きた。(8章)多くの人は、世界へ散らばって行った。その中にアンティオキアがあった。また、逃れてきた人は、ユダヤ人にしか福音を語らなかった。(キリスト教は、ユダヤ教の連続性の中にあった。)
V20,21:「キプロス人と、クレネ人が何人かいて」⇒デアスポらのユダヤ人クリスチャン。彼らはギリシャ語を話すことができた。先回の割礼を受けたクリスチャン達が、異邦人の救いを受け入れた情報もあり、異邦人に福音を延べ伝えた。☞このことが事実上の異邦人教会に発展する要因になった。
V22-24:「バルナバ」⇒エルサレムから派遣された。異邦人が救われている。大勢だ。この様な情報が入ってきた。ここは、色々な背景の人たちがいた。教会としてまとまることは難しい。これをまとめるのは、“慰めの子”バルナバである。背景を理解し取り持つことができる人。☞「立派な人物・・・・聖霊と信仰に満ちている」
V25,26:「サウロを探しに」⇒アンティオキア教会が、将来的に、異邦人教会として大きく発展する導きを受けた。この器は、サウロとすぐに聖霊によって教えられた。
適用:アンティオキア教会設立の要因は、正に神の摂理といってよい。①8章大迫害②全世界へと散らされた③コルネリウスの救い④割礼のクリスチャンが、異邦人の救いを受け入れた。⑤ディアスポラユダヤ人クリスチャンの伝道⑥バルナバ派遣⑦(将来的に)パウロの世界宣教を見極めた
冒頭、村上福音キリスト教会の摂理をお話しした。見える教会が立った。次は見えないキリストの体を建て上げる目標がある。見えないキリストを見える形にする。それは聖霊臨在の中で顕現されるイエス様である。
新しい礼拝堂で求めていきましょう。村上、日本の救いを求めて。
導入:本日は、初代教会の中でも、昔のユダヤの慣習から抜け出すことができないクリスチャン達が、ペテロの宣教に圧力をかけるところから学ぶ。
背景:異邦人に下った聖霊のバプテスマから、救いのゴールは、このバプテスマにある事を見た。
本文:V1-3;「ユダヤに入る兄弟たち」⇒今回出てくる者達、ユダヤ教の慣習から抜け出すことができない人達である。(原因;集団への恐れ、自己保身)「一緒に食事をした」⇒彼らは、異邦人が救われたことよりも、ペテロが、異邦人と交わったことに批判してきた。この原因は、先祖伝来の教えからきている。これが、ユダヤ社会の何百年の慣習となっている。
(4節から14節までは、10章の11-32節までの細かい説明、簡単にまとめられた内容。)
V4-10:※10章11-16節の詳述になっている。☞幻、聖霊臨在の中で経験した、しかも、二人が別々に経験しながら内容に共通性があり、最後は二人が出会っている。神のなせる業としか言いようがない。
V11,12:10章17-27節のまとめ。
V13,14: 10章30-32節のまとめ。
V15,16:前回のテキストのまとめ。「聖霊のバプテスマ」⇒2章のペンテコステも、先回45節の異邦人に降りた聖霊降臨も、1章5節の約束の聖霊のバプテスマとわかると同時に、この「聖霊のバプテスマ」はこれからも起きる可能性を教えている。
V17,18:「沈黙した・・・・神をほめたたえた」⇒ユダヤ主義者と酷評は避けたいが、ユダヤの慣習から抜け出せない。やはり弱さというより、集団的な罪に分類されよう。その彼らが、納得したのは、やはり幻、聖霊臨在の中で起きる事が、神から来ている事を彼らは承知している。※日本人ならどうか「漫画のようなことはやめとけ」「SFの世界に浸っているんでない」位の事は言われるかもしれない。
適用:クリスチャンでも、この様に、古い慣習から抜け出すことができないことがある。歴史の長い教会の場合、時々見かける。キリスト者は、基本的に地上の罪からの刷新を求めている人である。☞敬虔に生きること。
古い慣習から抜け出すことができない。この原因は、自己保身といったが、クリスチャンでも、この自己保身が当たり前の世界になる時、神は立ち上がられる。
私たちは、立ち上がられる神に委ね、信仰、宣教に励みたい。
導入:牧師は、信仰を考えるとき、3つの視点で確認する事をよく話している。本日は、信仰について、特に“神を喜ぶ”内容になる。
背景:神は公平な方。どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人なら、神に受けいれられる。正義を行うことの重要性を見た。☞神の国建て上げの、天国の様態である。
本文:V44、45;「異邦人にも聖霊の賜物が注がれた」⇒“この聖霊の賜物は、どうして聖霊と判断したか” この背景に二つある。ⅰ福音を聞いている。ⅱこの人たちは、神を恐れる、正義を行う人たちである。
V46:「異言」⇒聖霊臨在に触れると、喜びでも、天的喜びに満たされる。“賛美”なら喜んでいるとわかる。しかし、異言となるとどうか。ヤコブ書2章5節以下は、口(舌)は、感情の赴くままに表出される。天的喜びも、口から、異言という形で出てくるのである。
V47,48:「バプテスマを受けるのを、だれが妨げる事が出来るでしょう」⇒ここから見えてくるのは、聖霊のバプテスマがゴールであって、イエスの名によるバプテスマは途中経過と見たほうがよい。例。駆け落ちの話。
適用:使徒の働きを見てくると、“聖霊のバプテスマ”の重要性がいろいろな視点から見える。例:8章のサマリヤ宣教で多くの人が救われた。そのあとエルサレムから派遣され、“聖霊を受けたかどうか”確認している。19章では、パウロがエペソのクリスチャン達に同じようにしている場面がある。
一方、“聖霊のバプテスマ”が重要な点は、ローマ8章1-15節が教えている。また、エペソ1章13,14節も、救いの証印=確信(へブル11:1☞未来をつかみ取る)は、約束の聖霊と言っている。
この聖霊臨在が、未来をつかみ取ることを実証した牧師がいる。チョウ-ヨンギ牧師である。多くの実証を残しておられる。
この様に、聖霊のバプテスマの重要性が、聖書から、実証から、多くの証拠がある。
兄弟姉妹、大きな視点で語るなら、日本の救いとも関係している。個人的な視点で、宣教の場から、“聖霊の臨在体験”を求めていきましょう。
音声をお聞きになりたい方は、下記URLをコピーし張り付けてお聞きください。
(https://drive.google.com/file/d/1huCf9Ww9R0anGO940rzabpuJyK2KvoCu/view?usp=sharing)
導入:昔「正直屋」という屋号の店が時々あった。本日は、正しいあゆみの意味について考える。
背景:コルネリウスが、ペテロを迎えるにあたって、信仰・救いの期待感の大きさがうかがえる。
本文:V34-36;「神を恐れ、正義を行う・・・・神に受け入れられます」⇒正義は、旧約聖書の意味からすると“聖”である。神の国の本質である。一般恩恵の中で、異邦人であっても、神の国建て上げに、知らない内に参与している。
V37;「ユダヤ全土に起こった事柄をご存じです」⇒イエス・キリストの公生涯の働きは、遠くの地まで響き渡っていた。
V38;「ナザレのイエスのことです」⇒イエス様の、特にガリラヤ宣教は、「病をいやし、悪霊を追い出す」に象徴されている。神の国の建て上げを示された。また一方で、天国様態が地上に降りてきた働きでもある。(終末的)
V39-41:「3日目によみがえり・・・・私たちに現れた」⇒パウロはこの目に見える肉体を持ったイエスには会えなかったが、聖霊臨在の中で、お会いしている。これは、現代の私達も同じ体験をする事が出来る。
V42:「さばき主」⇒地上が文字通り、天国に代わる時、そこは聖なる所、悪・罪は受け入れることが出ないため、一掃される。当然に、クリスチャンも含め、地上を生きる人間は、突然やってくる終わりの時、備える必要がある。☞終末的
V43;「罪の赦し」⇒キリスト教の救いは、徹頭徹尾“罪の認め”(認罪)から始まる。たとえ、悪人(他者)のため試練があったとしても、自分自身の罪に向き合わなければならない。心に平安がやってこないなら、罪があると認める必要がある。☞神に委ねる事が出来ているか。
適用:一人の兄弟が証された。若い時、町内会の組長が回ってきた。お祭りを指揮しなければならなかった。総会で、組長に就任し、総会が終わりに近づいた時、この兄弟は、手を挙げ、お祭りはできないと断った。当然、総会は騒然となった。町の長老が、後で来なさいと言われた。崖縁に立たされた気持ちで、祈って出かけたが、祈る中で、腹の底から、力が湧き出てきた。この長老さんに会ったら、「あなたは正しい。祭りは自分がする」と言われた。
聖書が教える正しく生きることは、迫害があっても、貫くという標準がある。神に与えられた、賜物と、力によって、この目標を目指し、聖・義の歩みを全うしましょう。神の恵みは大きい。
導入:神様を求めるときのことを思い出すと、まことに真剣であった。何とか救いが欲しいという飢え渇きがあった。本日は、コルネリウスの求道の姿勢から学ぶ。
背景:救いは、救われる側と救いに導く側が、神の導きに誠実に応える中で起こる業である。ペテロの側に焦点を当ててお話しした。
本文:V23;「数人同行した」⇒これから始まる異邦人の交わりに、何が起こるか証人として出かけた。
V24;「親族や親しい友人」⇒コルネリウスの、期待の程が伺える。※コルネリウスの見た幻は、新しい救いについて聞く事が出来るというものであった。なぜなら、彼の求道心は、殆どクリスチャンのそれと変わらない。神概念がわかればキリスト者といってよい段階に来ていた。またそれを求めていた。神はそれに答えたといってよい。
V25-27;「足もとにひれ伏した」⇒彼は軍人であって、上官の言うことには絶対服従の環境で生きている。人間偶像崇拝とは違う。尊敬を表わすのに、最大限の行動をとったのである。またそれは、これから聞く福音の期待でもある。
V28:※ペテロの側の神の導きについて報告をした。
V29-33:※コルネリウス側の神の導き。「今、私たちはみな、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、神の御前に出ております。」⇒集団で、今開かれる宝のことば。期待の大きさと、集団で喜びを表している姿がよく表現されている。
適用:今回のコルネリウスの求道の期待感は、冒頭お話ししたケースとだいぶ違っている。求道の期待感は、多種多様を感じる。多くの人は、神様と一対一で、心の奥深いところまで神が下りて来て下さり、そこで出会っているような気がする。今回は、集団、期待と喜び。相当違いがある。この様なケースは、信仰をもって養いを受ける、聖会、修養会の時に似ている。例:牧師が一番初め参加したキャンプの証。
その後、キャンプへの期待は大きなものがあった。(聖会、キャンプは、個人の信仰の飛躍が期待できる。)
兄弟姉妹、皆さんの信仰生活で、期待する信仰はおありでしょうか。コロナ禍で、人の集まりが制限される中難しさは多くあるが、これから、宣教、個人の信仰成長においてこの期待をいろいろな場面で発揮しましょう。
導入:牧師の救われた時を考えると、神様が絶妙のタイミングで導いて下さったことを思う。本日は、この導きとそれに応じていく姿から学ぶ。
背景:ペテロの固定概念が崩された。これは、次の異邦人の接触という、当時の慣習からすると大きなハードルを乗り越えさせる導入となった。
本文:V17;「どういうことだろう」⇒この意味は一体何か思いめぐらしていた。
V18-20;「下に降りて行き、一緒に行きなさい。」⇒10章は、聖霊が、二人を導きそれぞれに指示を与え、それに応答している。
V21,22;「百人隊長」⇒これを聞いたペテロは、幻の意味が氷解したのではないか。異邦人だ!※「神を恐れる」⇒正しいを信仰的に表現している。
V23:「泊まらせた」⇒異邦人の交わりについて、もう疑問もはさまなかった。
人の救いは、冒頭でもお話ししたが、救われる側、救いに導く側の導きと、それに応えていく姿勢があって初めて成り立つ。特に、ペテロの側に焦点を当てると、結構大きなハードルがあった。そして、神の導きに応答(服従)して初めて救いが成り立つ。
適用:牧師の説教は救いと大いに関係があり、牧師の立場について適用させていただく。
牧会5年頃の証、ある求道者が「先生は、愛を語らないですか」と質問された。少し驚いた。しかし、この時も使徒の働きを講解説教していた。牧師は説教において、質問、もっと酷い時には、パウロが経験した使徒21;21(詭弁)のような批判に遭遇する。それでも、説教者は、一貫して、聖書信仰に立って、礼拝者に、真理を伝達する使命がある。それがなければ人は救われない。
兄弟姉妹、自分が救われた時を思い出して頂きたい。そこには、自分自身と共に、救いに導いて下さった教師自身が神に導かれ、“服従”があった事を考えて頂きたい。神様のご配慮に感謝したいと思います。
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導入:ある地域の牧師の集まりで、一人の女性教職が証をされた。“人は見かけによらない。”本日は固定概念からの脱却。
背景:10章は異邦人の救い。その初穂は、良く耕された器であった。そこから、クリスチャンの信仰の3つのキーワードについて見てきた。
本文:V9;「祈る」⇒敬虔なユダヤ人は、一日3回祈る。ペテロも例外でなかった。
V10;「夢心地」⇒驚くとも訳されている。トランス状態。
V11-14;「そんなことはできません」⇒ペテロはユダヤ人であり、律法を大切にしてきた。しかし、マルコ7章18,19では、イエス様が、「すべての食物は聖い」と言われた。このことは記憶に残っているはずである。自分の中に整理されていなかった。それが、幻の中の主も同じ事を言われ、混乱と共に自分の固定概念も崩れ始めた。
V15,16:「三回」⇒同じことが3回繰り返されると、さすがのペテロも、律法以上の主のことばに気が付くのである。
このテキストの箇所は、食物規定の固定概念を打破する意味だけではない。実は後に出てくる、“異邦人の交わり”の固定概念を打破する導入となっている。
適用:本日は、ペテロの固定概念が崩れていくのを見た。私たち福音派の聖霊に対する考え方を適用してみたい。
(聖霊の事は触れたくない。)
ⅰ神学校の経験 ⅱある兄弟の話 ⅲどこか幼稚でSFの世界
以上のことから、聖霊について触れるのは、難しい。という空気が生まれ、結構に長いこと、福音派の中で支配してきた。若い人たちにとって、聖霊は、触ってはいけないという固定概念が生まれた。そして、それが福音派の救いについて、弱さを招いたのではないか。(教会の中でも精神的弱さを持った方が多い。)※アリスターマグラス☞福音派は歴史の中で消えていく。日本基督教団2030年問題予測から。しかし、教会が弱いと言う事は、日本人の救いに関係してくる。
(聖霊と救いの確信)
使徒8章14-17節☞数われた者たちに、直ぐに聖霊のバプテスマを経験させた。※19章1-6も同じである。キリストによるバプテスマの後、聖霊のバプテスマをすぐに受けさせているのを見ると、救われるための最終目標が聖霊のバプテスマである。
日本人の救いが、今求められている。クリスチャンが、聖霊の臨在経験から“力”を証する必要はないだろうか。聖霊の事は触れたくないという固定概念を打破したい。
導入:世の中にはクリスチャンより敬虔に生きている人がいる。本日は、この良く耕された人の救いから、逆にクリスチャンの信仰の生き方を3つの視点から確認する。
背景:純朴、単純な信仰心について見てきた。地域が純朴性を醸し出した要因が、国内から見下げられていた土地柄であった。それが、良き方向に導かれた。多くの人がイエスを信じた。
本文:V1;「カイザリア」⇒港町、ロ-マ皇帝からヘロデ大王に寄贈された町。ローマのユダヤ総督がある。「百人隊長」」⇒今日の主人公コリネウス。ユダヤ教の改宗まではいかないが、信仰篤い人。
V2;「敬虔」⇒施し、祈りは、聖書が敬虔な人を表わすのに表現する言葉。神の前に忠実な信仰。人に対して配慮の行き届いた生き様。
(キリスト者の3本柱)
① 聖義の歩み
神の国はこの様な所。旧約律法の心がこれ。☞律法は新約でも生きているが、様々な視点で語られている。
② 信仰に生きる
自分の力で事を行わない。神により頼みつつ進む必要。※律法主義の誤った解釈
③ 恵みが生きがい
ウエストミンンスター小教理問答の第1問「人間の目的は何ですか」☞神に栄光をあらわし、神を喜ぶ。これは、クリスチャンとは、神と交わって恵みを頂き喜ぶという事である。また、これが人生の生きがい・目的にならなければならない。(優越感を喜びにする生き方がまことに多い。)喜びの種類☞信仰の確信。神の慰め。(愛)
V3;「幻」⇒聖書の常識は、天国様態。地上様態は特別。
V4:「祈りと施し」⇒この言葉は、もう一つの意味がある。献げものである。(詩篇141:2)「覚えられている」⇒このことばも献げものの意味がある。(レビ記2:2)献げものの次は、神の祝福である。(恵)
V5:「招きなさい」⇒神の命令であるが、祝福の命令である。
V6-8:※彼らは、神の祝福の命令に従って、行動し始めた。
適用:よく耕された異邦人が、イエスキリストを信じるまでの前半部分を見た。クリスチャン以上の敬虔さである。特に3本のキーワードから見てそれにも合致している。
私たちの信仰生活で、時に、今自分は3本のキーワードのどの部分が足りないのか。また今自分はどの部分で悩んでいるのかチェックしてみるとよい。
導入:本日は、素朴な人と、信仰について学ぶ。また、クリスチャンの証について学ぶ。
背景:文脈の中間点が本日の箇所。確かにイスラエルと、異邦人が混在する地理的中間地点がここにはある。
本文:V32;「リダ」⇒東は、エルサレム。北は、カイザリア。南は、ガザからエジプト方面。交通の要衝の地。人の往来は多い。「巡回」⇒ペテロはクリスチャンを拠点に巡回していた。
V33、34;「アイネヤ」⇒中風を患って8年間寝たきり。病気が固まっている。ギリシャ名。ヘレニストのクリスチャン。「立ち上がりなさい」⇒生きた信仰を持ったクリスチャン。
V35;「リダとシャロンに住む人々・・・立ち返った。」⇒この地域の人々も、神の奇蹟(聖霊の力ある業)に、単純に応え信仰に立ち返った。
V36:「ドルカス」⇒このクリスチャンは、特にやもめに憐れみを施していた。V37「死んだ」⇒多くの者は悲しみに暮れた。
V38;「すぐに来てください」⇒そこに居たクリスチャンが、ペテロの存在を知つた。それは、奇蹟の期待が膨らんだ。
V39;「下着や上着・・・見せる」⇒この地域の人たちの純朴な姿が見えてくる。
V40,41;「起きなさい」「立たせた」「聖徒たちとやもめ・・・見せた」⇒先回と同じ、純朴の人たちのところに、ストレートに信仰のみ業が現れた。
V42;「多くの人々が信じた」⇒この地は、純朴な人たちが多くいる。奇蹟を求めるのでなく、イエス様を求めた。
V43;「皮なめし」⇒動物の死体を扱うため、ユダヤ教から見れば、罪びと扱い。さらに交われない人である。しかしペテロはここに泊まっている。旧約律法、ユダヤ教の教えから、少しづつ開放が起きている。
適用:この地の環境は、純朴の人が多い。☞異邦人と、ユダヤ人の混在。更に、ユダヤ教から、拒否される罪びと(地の民)がいる。地位や名誉からほど遠い。これが単純な信仰心を醸成している。
また、この地に点在するようにクリスチャン達がいる。ドルカスのような良い証をし、この地の単純な信仰心が、生かされている。
私たちも、世の光地の塩となって、良い証をしましょう。
導入:音楽の話。G7コードは、華やかで、きらびやかな響きを持っている。しかし、不協和音が中に含まれている。宣教と比較するとよく似ている。本日は宣教を推進するパッションについて考える。
背景:アナニヤはこの箇所に出てくる、地方の無名の人。しかしサウロにとって救いの恩人。継続してサウロはこの人に祈られてきた。一方、救いと共に天国様態の中で事が進んでいった。サウロの今後の宣教に力強い確信となっていった。
本文:V19,20;「ただちに」⇒ガラテヤ1:17,18を見ると、一度ガリラヤに行っている。気持ちは直ちに。「この方こそ神の子です」⇒ユダヤ教は、これがわからなく、イエス様を十字架にかけ、ステパノを殺害した。根本はこれである。
V21、22;「驚いて言った」⇒一途な推進者は、身替りも早く、常識ではついていけない。「力を増し」⇒この器は、日増しにエネルギーが湧き出ている。「ユダヤ人たちをうろたえさせた」⇒何かクリスチャン達をかく乱しているのではないかと真意をつかみかねていた。
V23-25;「かなり日数がたち」⇒3年ダマスコにいれば、パウロの真意は知れ亘ってくる。ダマスコを支配しているのはナバテア王国。代官は、国内が外国人によって秩序乱されてはいけないと、パウロを捕縛することにした。「籠に乗せて」⇒弟子達が、身の安全を図った。
V26;「仲間に入ろうと」⇒一途な宣教の器は、旧から迫害、新から敬遠。この激しさが実は宣教を推進していく。
V27;「バルナバ」⇒この中に割って立ったのがバルナバ。“慰めの子”パウロの救いを一部始終見ていたようである。
V28,29;「ギリシャ語を使うユダヤ人」ステパノと同じ道をたどっている。恐れを知らない激しさ、一途。結局15日間居た。
V30,31;「タルソヘ」⇒エルサレムの弟子達の配慮であろう。この将来必ず必要な器を、こんな初期でなくしてはつまらん。強制的、生まれ故郷タルソに護送した。
適用:31節では、宣教のまとめが書かれている。サウロの活動が紹介されてのこの箇所である。村上、日本の宣教・救い、リバイバル。宣教は推進力がないと進んでいかない。この様な器の出現を待ち望む。昔も今も同じかもしれないが、社会は、無難な優等生を期待する。それからすると、大きくかけ離れている。しかし、この激しく、一途な器が必要である。祈り求めましょう。
導入:自分の信仰・人生の中で、ある時出会った方が、祈り、時には支援をして下さるということがある。本日はこのような方の存在について考える。
背景:サウロは神の偉大な器である。救われ方も、非常に激しいものがある。3日間、神の裁き(悔い改めへの導き)の中をさまよった
本文:V10;「アナニヤ」⇒5章のアナニヤとは全く違う。22;12に「律法に従う敬虔な人」⇒神にも人にも忠義・信義を尽くし、誠実に歩む。人からも尊敬されていた。
V11;「サウロ…訪ねなさい」⇒聖霊の不思議な啓示。「祈っている」⇒サウロの悔い改めは佳境を迎え、あとイエスキリストを信ずるばかりとなっていた。
12;「人が入って来て」⇒み使いの啓示は、具体的だった。正に神からの啓示に、未来への確信を握ったであろう。
V13、14;「どんなにひどいことをしたかを聞きました。」⇒アナニヤは、いくら神からの啓示(問題はない)とは言え、相手が相手であった。抗弁をした。※サウロの情報を一部始終知っていた。
V15,16:「行きなさい」⇒アナニヤは神に忠実な人である。理性で分からないときでも、神の啓示には忠実に従うことを知っていた。また、特別な世界宣教を担う器である。「苦しまなければ」⇒これは、み使いの言う事が真実という根拠にもなったろう。
V17,18:「手を置いて」⇒癒しと、聖霊が下る強調表現。「目からうろこ」⇒目が見えるようになった意味である。
適用:アナニヤについては、この所にしか出てこない。その名前は大きく知れわたり立場が大きく違っても、パウロにとってアナニヤは救いの恩人に変わりがない。一方、アナニヤは、この出会いを通じ、パウロという器が、本当に神に用いられるように祈っていたのではないだろうか。人を支えると言う事は、喜びが神から与えられる。ましてや祈っていた人が、神の前に栄光を帰す働きをするなら、自分の事のように喜ばしいことである。
兄弟姉妹、これからの人生の中で、支えるという機会に出会うかもしれない。その時、恵の時として、受け入れることができますように。
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導入:この人が救われるとは思えない人が救われてくる。本日はサウロの救いの現場から学ぶ。
背景:エチオピアの宦官は、「自分は神からも、人として扱ってもらえない」と愕然とした。しかし、ピリポは、福音の視点から、神の聖とは何かをバプテスマを交えて説明した。
本文:V1,2;「ダマスコ」⇒ガリラヤ湖から直線90K。街道沿いは110K。シリヤの首都。交通の要衝の地。(メソポタミア、エジプト、アラビア)宗教迫害で逃れてくる歴史もあった。ユダヤ人も多数住んでいた。サウロはそこまで追いかけて行った。☞執拗で、ユダヤ教擁護なら何でもする男。「大祭司…手紙」⇒ローマの許可の下、国外のイスラエル人も捕縛権限が与えられていた。
V3-5;「突然…光が…照らした」⇒この聖霊臨在は光すなわち恵み。一方で明らかに裁かれている。この二つを同時に受けている。サウロは、神に選ばれた大きな器である。今まで自由に悪事の数々をやらせていただいた。しかし、ついにその時が来た。大きな器は、普通の救われ方でない。「私は…イエス」⇒神の国の活動に妨害を企てるのは、イエス様に妨害している。勝ち目はない。
(裁きについて考察;裁きを祈る祈り)
① マタイ7:1,2節の「さばき」とは意味が違う。② 裁きの一般的意味(愛との対比も含め)③ 詩篇の神に裁きを求める祈りの必要性。
V7:「声は聞こえて」⇒サウロにとって、はっきりした啓示(神の意志)が現れている。(しるしと不思議)☞こ天的環境の中でのメッセージは、信仰の確信に至る。
V8,9;「3日間…しなかった」⇒3日間、自分の行ってきた、極悪非道を思い出し、整理し、神の道とはいかなるものか。そこから生まれるのが、神に選ばれた者の悔い改めということである。
適用:決して救われないと思っていたものが救われてくる。しかも、普通以上の賜物を発揮する。日本宣教は、きっと大きなステージに入っていくと信じるが、この様な器が求められているかもしれない。型破りであって、学術的であって、世界を動き回る器。二刀流の人を時代は要請している。
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導入:福音を平等という観点で見ると、究極の平等主義がある。唯一排除するのは、罪の問題である。これも、悔い改めれば赦される。本日は、福音の平等性について学ぶ。
背景:サマリヤの人が救われた。エルサレムから派遣されて確認したことは、聖霊の臨在体験。信仰の救いと密接な関係性がある。
本文:V26;「ガザ」⇒地中海沿いの町。旧ガザは荒れ果てていた。
V27、28;「宦官…エルサレムに上り…帰る途中」⇒宦官は、身に欠陥(申命記23;1-3)があるため律法の外にいる。(改宗もできない) 信仰深い人で、遠路はるばるエルサレム巡礼に行った。そこの経験は、厳しいものであった。“神は、人を身体的な事のゆえに人として認めてくれないのか”
V29-31:「イザヤの書」⇒イザヤ53章を読んでいた。「導いてくれる人…分るでしょうか」⇒聖書の救いは特別啓示。☞神のことばを、人の口を通して解釈されてはじめてわかる。(教会とは正にこの様な所。)
V32,33:※イザヤ53:7,8“苦難のしもべ”の箇所。※33節「さばきは行われなかった」⇒弁護はなかった。
V34、35;「だれについて」⇒神が人として認めてくれない。この悲しみと、この53章の人と、自分がダブって見えた。「この聖書の箇所から初めて」⇒53章はイエス・キリストの預言である事。※イザヤ56;3-7新しい救いの啓示を預言している。バプテスマについては、ローマ6;3-5がよく表している。
V36-39:「バプテスマを授けた…喜びながら帰っていった」⇒神を愛するこの心こそ、神が一番喜ばれる。救われた。
適用:現代、人として扱ってもらえないというのは、昔と少し意味が違うかもしれない。
現代日本においてはどうか。人間社会で一番悲惨な状況を見るのは、いじめに代表される事であろう。福音の救いは、すべて平等に人を見る。賜物の区別はあったとしても、いじめで、生き方が縮小されてはいけない。謙虚さ、隣人愛を忘れず、堂々と立ち振る舞うことが必要である。背後に神がおられることを意識して。
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導入:社会人から牧師に転向した時、聖霊臨在が、助けてくれた。本日は、聖霊臨在の必要性について学ぶ。
背景:ピリポのサマリア宣教、そして救われた人が多く起きた。少し触れたが、ピリポは、聖霊臨在の体験者で、その様な説教であるとともに、しるしと不思議が伴った。しかし、サマリアの人々の救いは、聖霊臨在は持っていなかった。
本文:V14;「聞いて…遣わした」⇒迫害が起きているところから、わざわざ、見に来るとは、よほど意識の高い内容であることがわかる。
V15,16;「聖霊を受けるように祈った」⇒なんと聖霊臨在体験を確認しに来たのである。
(バプテスマについて3種類出てくる)
① バプテスマについて;1章5節の“バプテスマ”で、“聖霊のバプテスマ”は、聖霊臨在体験のこと。
② ヨハネのバプテスマ;「悔い改めのバプテスマ」。イエス様が、ヨハネに命じた内容。(ヨハネ1:33)イエス様も受けている。弟子たちも受けている。(使徒1;22)しかし、再洗礼はしていない。☞有効なバプテスマ※この後、“イエスの名によるバプテスマ”ペンテコステ以降(使徒2:38)
③ 使徒19:2;この箇所も聖霊臨在体験を重要な事ととして捉えている。。
V17「手を置く」⇒これを、聖礼典の所作とみてはいけない。
V18-19;「金をもって…下さい」⇒神の賜物(恵)は、信仰と共に無代価で与えられるという敬虔な鉄則を知らない。
V20-23;「私には見える」⇒ペテロが怒った。
V24;「祈ってください」⇒この男は、素直なところがある。
V25;「福音を宣ベ伝えた」⇒ペテロとヨハネは、宣教しながら帰っていった。
適用:本日は聖霊臨在体験が信仰生活にいかに大切かを教えている。別の角度から、この臨在体験の必要性は、信仰の確信と大きな関連性がある。☞信仰;へブル11章1節⇒未来への確信⇒エペソ1章13節⇒救いの証印⇒約束の聖霊)
エペソ1;14「聖霊は、…御国を受け継ぐことの保証」これは“アバ父”の感嘆文が出てくる内容である。ローマ8:9-11の臨在体験があって出てくる言葉。
聖霊臨在体験は、特に信仰の確信(未来をつかみ取る)を与える非常に大切な事。
導入:福音とともに、しるしと不思議を交えて宣教するということを、あまり聞いたことがない。本日は、福音宣教に伴うしるしと不思議について学ぶ。
背景:ステパノ殉教、それに続く、エルサレム教会の迫害、クリスチャン達は、身を隠すように、逃れていったと思うが、実際は全くその逆であった。
本文:V4,5;「福音を伝えながら巡り歩いた」⇒逃げて行ったクリスチャン達は、はじめは、おどおどしていたかもしれない。しかし、サマリアの人達の方から魂の救の旺盛な欲望が生じてきたと感じる。
V6;「はなし…しるし」⇒ピリポの宣教は、しるしと不思議が伴っていた。
V7、8;「霊が叫びながら出て行き」⇒悪霊が出ていった。「多く癒された」⇒ピリポの宣教は、しるしと不思議が伴っていた。リバイバルと言ってい良い。これを、現代に置き換え、これを具体的に適用しなければならない。しかし、牧師個人的には、なかなかこのような事に遭遇することはなかった。例:「甲子園リバイバル」、書物の中から、趙先生の証、中国家の教会の証
V9-11:「シモン…魔術…神の力…人々の関心」⇒サマリアの街に、魔術でしるしと不思議を行っていた。これを本人も民衆も、神の力と勘違いをしていた。
V12,13;「バプテスマを受けた」⇒ピリポの宣教によって救いが起きた。しかも、多くの人に起きた。まさにリバイバルである。※ただし、この救いは、聖霊のバプテスマを伴うものではなかった。(理由;V16,17、19章1-3節)使徒の働きは、救いのバプテスマを明確に2種類記している。(1章5節)
適用:福音宣教とともに、しるしと不思議の伴う神の力が伴っていた。宣教に大きな説得力を有するものである。願って与えてくださるのは、神の主権である。
また次週のテキストは、聖霊のバプテスマを与え、信仰をゆるぎないものに導いている。
これからの宣教、日本ではなかなかイメージがわかないが、しるしと不思議を伴う証が付随するなら積極的取り入れることは、神の力を知る上で大切である。リバイバルを求めつつ祈って備えましょう。
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導入:現在、大変な試練にあっている事も、時が過ぎ、その時を振り返ると、実は、自分の人生で、また共同体の中で、どうしても通らなくてはいけない事だった、と感じる時がある。本日は、迫害と、宣教について学ぶ。
背景:ステパノの説教は、たいへん激しいものであった。殉教を経験したが、これがステパノ個人に限らず、初代教会へと波及して行った。
本文:V1;「激しい迫害…使徒たち以外は」⇒指導者として責任が伴う。このため、最後を見定めていたのではないだろうか。
V2;「敬虔な人たち」⇒使徒と同じように責任を全うした。
V3;「サウロ…荒らし」⇒野獣が、人を襲って危害を加えている状況。サウロは、正に「罪びとのかしら」(Ⅰテモ1:15)
(迫害と宣教)
日本人の物事に対する捉え方に「始めたことは最後までやり通す」このような考え方がある。勿論大切に決まっているが、“自分には難しい”という判断がある。やはり、その理由の判断を否定することはない。(日本人は、負け犬のように世間から評価される。)
もう一つ宣教という視点から見ると、大宣教命令を考えると、“出て行き”というキーワードがある。神様は、迫害という無理やり、外へ追い出される中に、実は非日常の新しさを求めて欲しいという神様のご配慮と言わざるを得ない。これが宣教である。
適用:現在の世界と、今日のテキストを考えたい。
中国の場合;クリスチャンの迫害があることは十分推察できる。彼らは、逃れることができない、どうしたか、地下に潜っていった。(宣教との関係は?)☞実は、韓国がよい実績を持っている。
日本はどうか、先鋭化した迫害(国家レベルでない、個人の隠れた部分)ではない。しかし、迫害に類する、いじめ等で多くの人々が被害、苦しんでいる。何か、雲に包まれた様に問題の真相が隠れている。しかし、確かに問題がある。※アリスター・マグラスの話。中国家の指導者ブラザーユンの話。
目に見えないサタンに捉(捕囚)えられている。問題の真相を凝視する。(①日常の中で迫害のような問題と捉えづらい、大騒ぎするな!迫害者は、身近な隣人②集団的圧力)宣教の視点から考えると、今までとは少し違う。脱出するには、み言葉に帰る。①聖霊臨在も合わせた信仰に立つ。②聖さを取り戻す。
導入:2Cの神学者テルトリアヌスは「殉教の血は教会の種子」といった。本日は、殉教について学ぶ。
背景 ステパノの説教は、多くが、イスラエルの歴史は、主が立てた預言者にいつも逆らってきた、と弁明してきた。
本文:V51;「うなじを固く」⇒頑固者「割礼」⇒神の契約証書。神に対する、債務は従順。心(=神の意志)、耳(=神のことば)
V52;「この正しい方」⇒メシヤなるイエス様。
V53;「律法」⇒神から生きる道を受けたが守らない。
V54;「はらわたが煮え返る思い」⇒ついに爆発した。
V55,56;「天が開け」⇒殉教の道に導かれていく。神の特別の恵みの道。一方、殉教は大変困難と想像する。しかし、それを乗り越えるのが、「天が開く」。
V57,58;「上着をサウロ・・・足もとに置いた」⇒証拠物件。※イスラエルの慣習では、正式な刑となる。石打の刑は、神の冒とく罪。極悪人サウロが、偉大な宣教者となる。救いの妙なる御業。
V59,60:「罪を彼らに負わせないで」⇒今まさに、地上去る者の、生きとし生きる悪人を含めた人類への哀れみ。 ※いつもがいつも、この様な悪人への祈りにならなくてもよい。詩篇、ダビデの祈り(悪に対する裁きの祈り)も、地上を生かされている者の悪への祈りである。それは聖を求める神の心である。
適用:本日は殉教について学んだ。別の姿の同じ内容がある。“いじめ”“村八分”である。“殉教の血は教会の種子”いわゆる、神の国拡大である。
一方“いじめ”はどうか。Ⅱテモテ3;12「キリスト・イエスにあって敬虔に生きる者は、迫害を受ける。」☞真っ黒な背景に、真っ白な用紙を置くと何が起きるか。すごく目立つ。それは、全体的に悪というものが、表にあぶり出される。ある者は、罪が示され悔い改める者が起きるかもしれない。逆に“いじめ”をするものが出てくる。神の国では、このような人権を侮るものに神は黙っていない。“さばき”が始まる。(☞神の国拡大)
兄弟姉妹、勇気を持って、聖なる生き方をこの世にあって示そうではありませんか。
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導入(背景):本日はペンテコステです。聖霊降臨日。本日は、ロ-マ人への手紙8章からテキストを選びました。特に、聖霊の現れが感覚的にどのようになっているかを意識して見ていく。
本文:V1;「こういうわけで」⇒7章の後半(善を行っても、神から離れた生き方は、いつか壁にぶつかって頓挫する。)。8章は、前提条件に、信仰を与えられている事がある。
V2;「いのちの御霊の律法」⇒信仰によって、聖霊が自動的に入ってくる。そして、7章で頓挫するものが、しなくなった。
V3、4;「肉において罪を処罰された」⇒3節は、キリストの贖いのことが書かれている。イエス様は、人であり神である。
V5,6;「考え…思い」⇒惹かれる。捉えられる。意思と関係なく、これが肉なら、恐ろしい。しかし、御霊なら、救いに至る。
V7,8;「肉のうちにある者」⇒考え、思いよりももっと酷い状態。
V9-11;※この箇所は、7,8節とは逆に、聖霊に捉えられているとどうなるかと語っている。全体的に聖霊について語っているが、聖霊、キリスト、父の表現で語っている。一番の特徴は、「聖霊が内住し、生きている!」と繰り返し3回語っている。☞聖霊が、地上に表出し、私たちの意思を超えて動き出す。この経験こそ信仰の確信の根拠。
V12-14:「義務」⇒12節は、肉に従って生きる義務はない。ならば、聖霊に従って生きる義務が発生する。
V15:「アバ父」⇒聖霊が、地上に現れ出て、しるしと不思議を見た者は、「私は、本当に天国に生きる者ですね!」
適用:証を紹介したい。チョウヨンギ師の証は、日常の中で証されている。わかりやすい。しかし、信仰の確信を、聖霊臨在の中で獲得する秘訣に秀でた賜物の先生と認識している。
信仰は、確信。特に、聖霊臨在の中で聞く神の声、経験が必要である。イエスキリストの十字架復活の福音の中に、大きく広がる聖霊の業を経験し、証しようではないか。
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導入:本日は、ステパノの説教から信仰義認と、神殿の相違について学ぶ。
背景;イスラエルは、神に選ばれた指導者を拒否してきた。これは、イエス様にも言えることである。糾弾の説教であった。
本文:V36;「40年の間」⇒出12:41から、エジプト脱出が始まった。40年間神の守りがあった。
V37;「一人の預言者」⇒イエス様のことであるが、神の守りと、民の裏切りが反比例するかのような40年間でもあった。
V38;「みことばを授かり」⇒出20章の十戒授与。
V39;「なつかしく」⇒出16:3は、“モーセを批判している。”
V40,41;「子牛を造った」⇒出32:1は、モーセが、40日40夜、シナイ山に登っている間に起きた事件物事、ハードルを越えると、神の怒りが勝ってくる。捕囚を宣言される。
V44;(ここから、神殿について語りだす。)「幕屋」⇒出26:1に幕屋の設計図が出てくる。祭儀礼拝の場所。神が顕現される場所。これが後にエルサレム神殿に発展していく。
V45,46;「とどまるところ」⇒Ⅱサムエル7:2ダビデは、“神の住処をきっちと落ち着いた場所”にしたいと、預言者ナタンに申し出る。「ソロモン…家を建てた」⇒Ⅰ列王記6;1
V48-50:ソロモンも、同じような祈りを、祈っている。“この宮にお入れできない。”
ステパノの心の中には“信仰義認の圧倒的恵みを持っていた。”これを色々な視点で比較して表すことができる。
① 神殿☞犠牲の捧げもの。大祭司による罪の赦し。これらは、信仰義認により廃止される。※この(場所特定)神殿は、お金を生み出す宗教システム。☞神は遍在されるお方。
② 信仰☞『霊と真の礼拝』見えないが生きて働いているお方。☞偶像崇拝は、“見える”“偏在”に明らかに違反している。
③ 霊的恵み☞天国様態(天国の突入)。力。しるしと不思議。終末的。
祭司たちは、自分たちの宗教システムが破壊され、民衆が、ステパノの新しい考え方“信仰義認”に心打たれ、リバイバルが起きていた。ステパノは、火薬庫に、火を投げ入れたのである。
適用:私たちは、金の子牛を造ってしまう。この世の見えるものに心をゆだねてしまう。この見えるものは、“経験”と言ってよい。経験でも、天国の中で見る経験が必要である。信仰による天国経験が、この難題をぶち破っていく。
導入:本日は、モーセの出生から、召命まで学ぶ。ステパノの弁明(2)である。
背景;最初の弁明は、アブラハムの選びであった。イスラエル民族にとって、信仰の源流。心のふるさと。すべての者の民族的土台。
本文:V17,18;「約束の時」⇒エジプト脱出 「知らない王」⇒エジプト19王朝の初期の王
V19;「苦しめ」⇒過酷な労働(しかし、へブル民族は増々増えていった。)
V20,21;「このような時」⇒時代を切り開く指導者は、時に数奇な人生を歩む。「ファラオの娘が拾い上げ」⇒パピルスの箱に入れ、繫みに置かれたモーセ。それを王女が見つけた。不思議ないきさつがありながら、王女の養子として育てられていく。
V23;「40歳になったとき」⇒民族自立意識を掻き立てられた。
V24,25;「虐待」⇒モーセはこのエジプト人を殺し、砂の中に埋めた。理解してくれるものと思っていた。
V26-28;「指導者、さばき人」⇒エジプト人を殺しておきながら、指導者顔はやめてくれ!ということである。理解されない。
V29:「逃げた」⇒ファラオの耳に入った。いくら王宮に住んでいるといっても、へブル人が、エジプト人を殺すことは許されない。アラビアの砂漠のほうに逃げた。
V30,31;「40年たった時」⇒モーセの召命は80歳である。驚きである。この40年は、自我を打ち砕く40年。「アブラハム・・・・・の神」⇒父祖に現れ、この父祖達はなくなっている。しかしわたし(主)は、見ることはできないが、生きている。
V33,34;「行け・・・・遣わす」⇒モーセのエジプト脱出が始まる。
V35;「拒んだ・・・遣わされる。」⇒モーセを拒否するイスラエル国民。それは、イエス様を拒否したイスラエルそのものだ!と、議員たちに語っている。
適用:我々クリスチャンの生き方も、キリスト者として生きようとするとき、この社会は、それを受け入れようとしない。まことに、世の罪と悪をまざまざと見せつけられることがある。
キリスト者は、この環境に負けることなく、神の国を立ち上げようではないか。
(説教を音声でお聞きになりたい方は、下記のURLを張り付けてお聞きください。)
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導入:村上のキャッチコピー“鮭、さけ、人の情け”のがある。県外に暮らす者にとって、故郷の食べ物は郷愁を誘う。本日は、ステパノの弁明から、イスラエルの信仰の源流“アブラハム”について学ぶ。
背景;熱血宣教者ステパノへの妬みから、“神殿”“律法”への侮辱罪をでっち上げた。(ガチガチのユダヤ教徒“リベルテンの会堂に属する者達”)
本文:V1,2;「父アブラハム」⇒イスラエルの信仰の源流。イスラエル人なら、悪く言う者はいない。共通理解があるはず。この源流を意味する“アブラハムの選び”から話し出した。
V3,4;「示す地へ行きなさい」⇒アブラハムの召命・応答。選びの祝福が書かれている。
☞契約概念が聖書には出てくる。これは、片務契約(贈与)。一方的な恵みの契約。
V5;「所有地として与える」⇒土地、物、お金の祝福は、いつの時代でも、祝福の見える形である。
V6,7;「400年間・・奴隷」⇒エジプトでの試練が予言されている。これはイスラエルにとって受けがたき経験となる。「さばく」⇒エジプト王パロ(及びエジプト)は、10の災害を被ることになる。神の国は聖なるところ、悪が裁かれることは、恵といってよい。「仕える」⇒また、カナンに戻る。
V8;「割礼」⇒アブラハム契約を証する、言わば“証書”
V9:「ヨセフをねたんで」⇒選びの流れをくむ族長達が、その恵みを拒否しだした。「全部を収める高官」⇒エジプトの国務大臣。選びを拒否する原因は、罪。これは神を拒否することに他ならない。しかし、その様な事があってもそれを大逆転に計る神。14節「全員を呼び寄せた」⇒カナン飢饉後、結局、ヨセフが売り飛ばされたことが、イスラエルを救うことになった。まさに罪をも益と変える選びの神である。
適用:神の選びは、クリスチャンにも、現に今存在している。(アブラハムの祝福が流れている。)
試練。時には、信仰バックスライドまで、何かの恵みと直結している。(だから悪いことをしてもいいとは言わない。神の領域の話。)
選び・祝福の奥深さを見る。試練☞恵みの門口 失敗☞試練が伴うが。悔い改めのチャンス。初心を覚え出直す。
https://drive.google.com/file/d/1G3G5BJygSAtwwEtQawyMFkM4XYAaznD9/view?usp=sharing
導入:前の奉仕教会は、メリー先生が開拓された。当時を知る兄弟姉妹は、一様に厳しかった、と言われる。それは聖さのあらわれと信じている。本日は熱血の宣教者ステパノから学ぶ。
背景;6章から初代教会に多くの人が救われ、人の数も増えた。使徒の本来すべき職務が、できなくなった。そこで役員組織を作ることになった。
本文:V8;「恵みと力に満ち」⇒13節、14節を見ると、ステパノの話している内容が想像できる。いわゆる、信仰義認である。EX.マルチンルター、ジョンウエスレーである。
V9,10;「リベルテン」⇒“自由を得た者”という意味。ローマの奴隷から解放された者。やはりユダヤ教ユダヤ人。「議論」⇒ユダヤ教の者達に、信仰義認のすばらしさを証した。「対抗することができない」⇒元々相手を打ち負かそうとする議論は、泥沼化する。やるべきではない。しかし、恵の大きさが尋常でないとき、相手の反発すら飲み込まれてしまうのだろう。
V11;「モーセと神を冒涜」⇒V13,V14節にも同じ言葉が出てくる。①神殿破壊と3日後に建てる。☞旧約の祭司による救いが終わって、イエスによる新約の信仰義認が始まる。②ユダヤ教律法主義が破壊。
V12;「民衆」⇒前2件の投獄(留置)は、当局者との対峙であった。しかし今度は、民衆たちも敵に回った。※中途半端な信仰がセパレートされてきた。
V15;「み使いの顔」⇒ステパノは、天国が見えたのだろう。覚悟を決めた。
適用:信仰義認のすばらしさを冒頭でもお証した。日本の宣教が遅々として進まない。私は、この信仰義認の全体像が日本人に正確に伝わっているのだろうかと思う時がある。十字架によって罪赦された。実体的にここで止まっているのではないか。ローマ8章1-15節の聖霊の内住それが、リアリティーを持って語られてきたか。聖霊臨在、しるしと不思議、そして、その証、体験。天国様態の突入。終末的。私達は、この点について、同胞日本人に、懇切丁寧に理解を求めていく必要はないか。さ迷っている同胞に、一にも二にも早く、救われてほしい。問題は山積みである。
(音声でお聞きになるときは、下記URLを張り付けてお聞きください。)
https://drive.google.com/file/d/1gxaapwCuYthFyLj-8oeSBae8QkgNs92V/view?usp=sharing
導入:井伊直弼(大老)の歴史における評価は決して良いものではない。しかし、時の将軍(家定)が、病弱、知的にも精神的にも弱かった。しかし、主(あるじ)に良く仕えたようだ。
本日は役員について学ぶ。
背景;5章までは、エルサレム宣教について語られた。次は、ユダヤ・サマリヤ、そして世界に広がっていく。(1章8節)その合間に、今日のテキスト、そして次の熱血の宣教師ステパノが挿入されている。
本文:V1;「ギリシャ語」⇒エルサレムには、海外で生活していたユダヤ人が、がクリスチャンになった。(へレニスト)「苦情が出た」⇒“やもめへの配給”に不平等(へレニストへの)が起き始めた。
V2;「神のことば…後回し」⇒教会の一番大切な事は、魂を養うこと。☞みことばの奉仕が難しくなった。
V3;「選びなさい」⇒いわゆる役員(執事☛ディアコノス)選任。信徒総会で決めなさい。※大切な事は、共同体総意の中で決定する。☞この共同体は平等主義、民主的である。一方、組織は、指揮系統の一本化として、指示、受任という側面がある。「御霊…知恵…評判の良い人」⇒執事の条件①御霊に満ちた☞信仰で物事を決める。聖なる人(誠実、真実)②知恵☞豊かな知識を“神を愛し、人を愛する”ために用いる人。③評判の良い人☞外の評判。
V4;「祈りとみことば」⇒祈り、礼拝、宣教。
V5;「選び」⇒選ばれた人たちは、へレニスト。☞①差別を受けた側②これからの世界宣教の足掛かり
V6;「手を置いた」⇒按手☞①神の祝福②神からの任命※団体の代表としての任命
V7:「祭司」⇒①職制の発生②ユダヤ主義の温存
適用:私たちの教会も、クリスチャンが増えてくることを信じているが、その時職務分担、役員会を作る時が来る。大切な事は、霊的な人材に委ねる事である。信仰生活が、日常の中で生きていない人。また、聖(真実、誠実)なる生き方でない人。これは将来問題が起きやすい。
執事は、相応しい方に任せる事が必要である。
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導入:教会の活動(基本的に宣教)は、ダイナミックである。一方、社会の改革も同じ様な特徴がある。私たちは、神がこれらをどのように取り扱うか注視する必要がある。
背景;先回、ペテロ、ヨハネの宣教についてサンヘドリン議会は、審問にかけてきた。迫害であるが、一つ一つの場面を見ると迫害どころか、ペテロ達の答弁に勝機があった。議会は、悔しさではらわたが煮えくり返った。
本文:V33;「殺そうと」⇒こんな者になぜ!馬鹿にされるのか!悔しさがにじみ出ている。
V34;「ガマリエル」⇒パリサイ派の律法の教師(ラビ)。パウロも若い頃、門下生であった。(22;3)また、国民から信頼され敬われていた。
V35,36;「テウダ」⇒魔術師で、自分は偉大な預言者だと言って、多くの者を惑わした。しかし、当局につかまって、殺された。
V37;「ユダ」⇒住民登録(AD6,クレニオ総督)は、冒涜だと言って反乱を起こした。これも、霧散していった。
V38;「人間…自滅」⇒大きな事件、それが神から反逆している事なら、自滅する。Ex.戸塚ヨットスクール
V39;「神から出た…神に敵対」⇒神が人に委任してされる事は、神がされているという事である。敵対者は、神に滅ぼされる。Ex.牧師の主日順守
適用:クリスチャン、教会の活動と、神から離れた改革者の活動と、社会は類似性を感じている。そのため私達の信仰が、本来あるべき姿から離れていることがある。
イギリスのウエストミンスターチャーチの元牧師D.M.ロイドジョンズの「栄に満ちた喜び」は、キリスト教界に2極化があるという。①聖霊体験を重要視し、聖書を2の次にしてしまう危険 ②前記と全く逆。“霊的なもの”“尋常でないもの”“無秩序”を恐れる。このため、“自制”“上品さ”に気を使いすぎて、御霊を消してしまう。☞聖書を矮小化してしまう。問題は、多くの場合、後者のケースであると語る。
聖霊の臨在体験を認めない、求めない生き方をしていたら大きな問題である。
社会の評価を気にすることなく、信じた道を進んでいこう
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2021年4月4日 礼拝説教
聖書箇所 マルコ16章1-8節
説教題 「 復 活 」 面 曻師
導入:救われた当時、教会学校の集会で、幻燈による、本日の場面が上映された。姉妹達が朝日を受けながら、慌てて墓に向かう姿が、印象的であった。本日は復活を学ぶ。
背景;先週は十字架であった。十字架の意味は、私達の罪を赦すため。
本文:V1,2;「油を塗りに‥‥墓に行った」⇒葬りが急だったため、改めて処置しようとした。
V3;「石を転がしてくれるでしょうか」⇒墓の封印。ローマの兵隊が番をしている。処置できない、と改めて思った。それだけ姉妹たちは慌てていた。
V4,5;「石が転がして‥‥驚いた」⇒天使が降りてきた。それに伴って地震が起き、石が転がった。そして、真っ白な衣をまとった天使がいた。
V6;「あの方はよみがえられました。」⇒この宣言こそ(信じるか信じないかは別として)、歴史的事実の宣言である。姉妹達の驚く様子が、現実性を証言している。
V7;「ガリラヤ」⇒弟子たちが召命を受けた場所。
V8;「だれにも何も言わなかった」⇒姉妹たちの驚きようは、普通ではない。体が震え、天使が言ったことを伝える事が出来ない。恐ろしかった。何が起きるかわからない。
信じる、信じないは個人の問題であるが、聖書は、この女性たちの個人の心の状態を克明に描写し、歴史的事実を聞く者に訴え続けている。
適用:しかし、復活が信仰者にとって、本当にそうだとわかる時がくる。
所で話が変わるが、
人間にとって、生きる上で、未来を知るという事は、心の平安と密接なつながりがある。聖書は、へブル11章1節で「信仰とは、望んでいることを保証し、まだ見ていないことを確信させる」いわば、未来に対する確信と言って良い。(信仰は未来学!)それが平安(救い)をもたらす。
しかし、この確信(平安)をもたらすのは、何か?復活である。復活の聖霊は、しるしと不思議(奇蹟)の形で出現するのを、私たちは経験する。私たちは未来を手に取ることが出来るのである。
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